共感と永田町(2011)
共感と永田町
Saven Satow
Jun. 03, 2011
「私の最大の仕事は、彼らの仕事を包括的に承認し、個別的に追認することであると私は考えた」。
中井久夫『震災がほんとうに襲った時』
被災者が永田町に求めているのは、何よりも、まず共感である。「あの人たちは自分たちの気持ちをわかってくれてるのだろうか。都合のいい口実に震災被害を利用し、見捨てる気でいるのではないか。何かをしてくれなくてもいい。せめて現場の邪魔だけはしないで欲しい」という不信感が被災者の間には渦巻いている。
信頼されていない人が何を言おうと、どうしようと相手にされないものだ。それが生じるには、その人が親身になって自分の話に耳を傾け、共感してくれていと思われなければならない。
原発事故以来、東京電力が人々に信じられていないのは、苦しい眼にあっている市井のことよりも保身を優先し、情報を隠していると疑われているからである。東電は人々への共感への重要性に依然として気がついていない。
永田町はこうした東電の対応から何も学んでいないことが2011年6月2日の内閣不信任案騒動ではっきりしている。原発産業における情報の隠蔽と安全性の軽視は自民党政権下で育ったのだから、当然と言えば、当然である。「自分がどれだけ被災地のことを思い、いろんなことをしようとしているのにできないのは、菅直人首相のせいだ」と言い訳を繰り返す議員を眼にする。しかし、これは呆れるほど幼稚だと言わざるを得ない。先に自分のしたいことがあって、その障害があると、不平不満を漏らす。頭にあるのは自分だけだ。被災者への共感から論理を組み立てれば、何が自分に求められているかおのずとわかるだろう。そこで復旧・復興の作業に従事し、暮らしていく現場が使用としていることの後押しである。永田町での混乱は、これにとってゼロではなく、マイナスに作用する。結局、それを取り戻すのも現場だ。
おまけに、「『急がば回れ』という諺もある。いずれ被災者の方も理解してくださる」などと口にする議員が与野党問わず少なからずいる。馬鹿も休み休みに言え。理解すべきなのは、日々不安にさいなまれている被災者でなく、永田町の方だろう。本末転倒も甚だしい。自分たちはデカイことをやっているのだから、人々は我慢して当然だと勘違いしている。
ドラッグは、生産的なことを何もしていないのに、自分が大きな仕事をやっていると錯覚させる。しかも、種類によっては、精神的な依存性を引き起こす。政治人事のゲームはそんなドラッグの一種である。永田町にはこういうジャンキーが多すぎる。
〈了〉
参照文献
中井久夫、『震災がほんとうに襲った時』、みすず書房、2011年