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持続可能社会と詩(4)(2010)

第4章 持続可能詩
 19世紀末や20世紀初頭の文学者たちは近代文明を厳しく批判している。日本で世間が「自然」という概念を知ったのは科学ではなく、文学からである。小説家や詩人、批評家たちはアイロニーを用いて文明への楽観論を糾弾し、「自然」の発見を訴えている。彼らは決して社会に眼を閉じることなく、それを体現する文学を模索している。

 もちろん、今日では彼らの方法論はもはや使えない。すでに講じてきたように、自然と文明という二項対立は根拠を失っている。IPCCが気候変動問題に関するシナリオを複数用意しているように、続可能社会への肯定やその姿にも複数の可能性がある。しかし、この多元性を導き出したのは主観主義ではない。客観主義である。文学における主観主義への過度の期待はもはや必要ない。散文家は主観主義に基づくロマンスで世界の複数性を描こうとしてきたが、その限界は見えている。詩人も他人事ではない。主観主義的アイロニーは効力がなく、別の方法論が必要である。環境問題を物質循環や相互作用など現代的な認識から扱っている文学は、少なくとも、日本にはない。かつてと違い、文学者は時代離れしている。言語も社会環境の一つだということを忘れてはならない。言語の環境問題としてアナロジカルに時代を考えてみるとよい。

 20世紀後半から、日本社会では、主観性が尊重されるようになっている。詩を始めとする文学が主観性をとり上げてきたのは、重要な貢献である。しかし、言語芸術が主観性を描く場合、その一般性に陥りやすいことに注意しなければならない。言語は、映像と違い、一般性を表象してしまう特徴がある。言語で表現すると、個別的な主観性ではなく、一般的な主観性をなぞってしまいがちになり、文学者には格別の配慮が必要である。言うまでもなく、この一般化の機能により法律の成文化が有効になる。主観性一般というのは背理であるが、村上春樹の流行が端的に示しているように、それに文学者や読者が気づいていないことも少なくない。文学者は自分の主観性を発露することに忙しく、他者の主観性に心をくだく余裕はないようだ。相互交流を重ねて、個別的で具体的な文脈を配慮した上で、その主観によって最良のことは何かと判断するサポートする。カウンセラーや看護士,介護福祉士に必須されるこうした臨床知を文学者も身に着け、創作することは有意義である。主観性を扱うにしても不徹底だったのではないかという自省が文学者にあってしかるべきだ。

 社会が直面している問題は複雑であり困難である。しかし、だからと言って、自閉したり、短絡化したりすべきではない。人類がこれまで経験したことのない社会に直面していながら、詩人がそれを創作しないのは鈍感か怠惰か無能かのいずれである。また、世界が激動していても、詩はその中でも不変の本質を扱うのだとすれば、相対化の作業を通じて案じさせるべきであろう。

 すでに持続可能社会を見越したような詩人が登場している。それが宮沢賢治である。彼は科学を通じた自然と文明の相互作用を理解している。『グスコーブドリの伝記』(1932)は地球温暖化のメカニズムを取り入れた文学史上最初の作品である。主人公ブドリは火山を噴火させて、大気中に温室効果ガスを増加させ、地球の平均気温を上昇させて冷害を防ぐ。自然を近代文明によって抑えこもうとしている人間中心主義ではないかと非難するのは早計である。この作品は前年の東北大飢饉を背景にしている。豊作貧乏や世界恐慌などで弱っていた東北に冷害が襲う。米が例年の6割程度の収穫しかない大飢饉により、欠食児童や娘の身売りが問題となっている。遠いニューヨークを震源にした世界恐慌から花巻も無縁ではない。世界は相互作用の中にある。地球温暖化に関する今の通説とは異なっているけれども、持続可能社会を見据えていた稀有な文学者である。

 童話だけでなく、詩でも持続可能性を意識し、賢治の『春と修羅』(1924)の序は持続可能詩を次のように手引きしてくれる。

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一點にも均しい明暗のうちに
   (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を變じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相當のちがった地質學が流用され
相當した證據もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

 「因果交流」は相互作用のことである。電流には直流と交流の二種類がある。前者は常に正極から負極へと一方向で流れるのに対し、後者は電流の向きが交互に変わりながら流れる。因果が交流のように相互に向きが変化するとしたら、それは相互作用を指している。ここには相互作用や循環が直視され、断片化など微塵もない。

 賢治のすべてが持続可能詩というわけではないが、この詩集に収められている「林と思想」はまさしくそれを具現している。

そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちいさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
 こゝいらはふきの花でいつぱいだ

 詩人は断片化ではなく、相互作用を作品にとりこまなければならない。『荒地』の新しさは、古典となった今でも、創作過程におけるエリオットとパウンドの相互作用にある。パウンドはエリオットの非個性理論に感銘を受け、それを使って『荒地』を再構成する。『荒地』は相互作用の産物であり、その意味で、依然として乗り越えられたわけではない。詩の創作にもこうした相互作用を導入すべきであろう。相互作用も、対人だけではない。「人馬一体」というように、動物とでもあるし、機械の間でもあり得る。持続可能詩にはさまざまな衆智が欠かせない。
〈了〉
参照文献
荒地出版社編、『荒地詩集〈〔1951〕〉』、早川書房、1951年
亀井俊介他編、『アメリカ名詩選』、岩波文庫、1993年
小林茂他、『人文地理学』、放送大学教育振興会、2004年
巽孝之、『アメリカ文学史のキーワード』、講談社現代新書、2000年
宮沢賢治、『ザ賢治』、第三書館、1985年
山口光恒、『改訂版環境マネジメント』、放送大学教育振興会』、2006年
渡邊守章、『フランス文学』、放送大学教育振興会、2003年
T・S・エリオット、『エリオット評論選集』、臼井善隆訳、早稲田大学出版部、2001年

Poets.org
http://www.poets.org/index.php
Project Gutenberg
http://www.gutenberg.org/wiki/Main_Page

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