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学校文化から見る「カワイイ」(2010)

学校文化から見る「カワイイ」
Saven Satow
Apr. 04, 2010

「ただし、学校であれ会社であれ、とかく同性ばかりが固まりたがるのは気にくわない。異文化を求めなければ、文化というものは閉じてひからびる」。
森毅『女の時代を気にやむな』

 2010年3月5日~6日、「クール・ジャパノロジーの可能性」という国際シンポジウムが東京工業大で開催されています。「カワイイ」表現が日本のサブカルチャーの象徴として海外で注目され、それをめぐる議論も活発になされています。アーティストの村上隆は、その二日目の「日本的未成熟」と題した討論会で、「本質的に、カワイイものは死と直面している。それゆえにカワイイ」と発言しています。

 おそらく、今日的な用法で「カワイイ」が使われ始めたのは1980年前後半でしょう。80年代に女の子たちが多用するようになり、それと共に「たこ八郎が『カワイイ』はないだろう!」といった反発をも招きながらも、社会に浸透していきます。その後、90年代に認知され市民権を得たと言えます。2000年代に入ると、一般紙の見出しにも抵抗なく使われるようになっています。

 先のディスカッションには、村上の他、映画監督の黒沢清、社会学者の宮台真司、比較文学者キース・ビンセント、批評家の東浩紀が参加しています。

 しかし、「カワイイ」を自分の判断に従って使えるのは女性、中でも女の子です。彼女たちは「カワイイ」のネイティブ・スピーカーであり、その用法は暗黙知として内在化されています。男にわかってもらいたくて使っているわけでもありませんから、その定義も用法も明確にする必要はありません。日本語のネイティブ・スピーカーであっても、「カワイイ」において、男は外国人なのです。

 非ネイティブ・スピーカーは、外国人として、その言語に接するのが賢明です。考えようによっては、これはジェンダーの問題に属します。

 外国語としての日本語という観点から考察しない限り、「カワイイ」は明らかになりません。日本語教員こそが最も説明できるのです。事実、一般に流布している「カワイイ」論は無残としか言いようがありません。

 議論の際に、しばしば誤解されているのが、「カワイイ」を見た目から解釈しようとすることです。「カワイイ」は内面の言葉です。対象の見かけに対してであれば、「かわいらしい」という別の形容詞があります。戊辰戦争の際に官軍の司令官が被っていた赤熊・白熊・黒熊のようなヘアー・スタイルの女の子が「カワイイ」と言われていても、外見にとらわれるべきではありません。

 恣意的と思えるほどに非常に広い対象に「カワイイ」が用いられるのは、それが気持ちの問題だからです。主観的ですので、外部にはその論理がわかりにくくなっています。その対象に自分のテリトリーに入れたい愛情を持てるか否かが判断基準となって発せられるのです。テリトリーに入れるのですから、それは攻撃性・危険性・恐怖性がないと主観的に診断したものになります。ただし、ニュートラルでなく、あくまでも強い愛情がそこに働きます。

 逆に言うと、「カワイイ」と判断されれば、相手のテリトリーに入れるということでもあります。

 ここまで述べてきたことは「カワイイ」と言うよりも、むしろ、一般的な「かわいい」の用法でしょう。男でも使えてしまいます。「カワイイ」は女性たちの間、場合によっては特定世代の間でのみ通用する判断です。「カワイイ」はたんに個人的ではなく、自分の所属している社会集団としての判断も加味されているのです。

 「カワイイ」を使って最もふさわしいのは若い女性、特に中高生です。それは「カワイイ」を規定しているのが、学校文化だということを示しています。

 森毅京都大学名誉教授が『「ベンチャー」「プリクラ」「2進法」』(1997年)の中で行っているプリクラについての分析は、「カワイイ」の用法をうまく言い表しています。

 学校では、制服や校章などと、古くさい学校のアイデンティティの名ごりはあっても、自らのアイデンティティは抑圧されてきた。身分証だの名札だのにいたっては、たしかに人ごとに違っても、学校の管理の一環に組みこまれただけのことであって、自己の表現にならない。自己の表現といっても、声高に自分を見せびらかそうとすると、さしあたりは茶髪やピアスぐらいになってしまって、ただ流行にまきこまれての横ならびにしかならぬ。むしろ、アクセサリー的なもので、ひそかに自己表現することから出発するのがよい。それが簡単に自由にできて、しかもさほどの危険がないとなると、女子高生あたりに人気が出るのも当然。

 森毅は一言も「カワイイ」を使っていません。しかし、「ひそかに自己表現することから出発するのがよい。それが簡単に自由にできて、しかもさほどの危険がない」と感じる愛情が「カワイイ」と言えます。「カワイイ」の内面性はこの学校文化を踏まえた分析が当てはまるのです。「日本的未成熟」の議論よりもはるかに示唆的です。

 中等教育機関に在籍している時期は思春期に当たり、内面が形成されます。しかも、中高生の期間は6年間と限られているだけでなく、日本の場合、学校空間は閉じられています。学生運動の頃であれば、他校との連携もあったでしょうが、80年代には各学校が自閉しています。そうなると、非常に微妙な気分が重要となります。

 1970年代は最も受験競争が激化した時期です。生徒は「欲しがりません勝つまでは」と心に近い、ライバルより1点でも多くとらなければならないと相対利得に追い立てられています。ゼロサム状況に支配された受験は「戦争」と呼べるものです。受験戦争遂行のために、総動員体制が敷かれ、高等教育進学者以外にも徹底的な詰め込み教育が施されています。戦時ですから、学校当局の管理統制は厳しく、生徒指導は細部まで及びます。進学校が比較的それがゆるやかだったのも、最前線の兵士への優遇措置です。こんな時局で「カワイイ」など口にできません。

 また、使われたとしても、一般的用法を超えるものではありません。80年代から段階的に始まったゆとり教育は、動員解除です。「カワイイ」が使われ始めるのは戦時体制の終焉と平時の復活も影響を与えているように思われます。それはちょうど高度消費社会が到来した時でもあるのです。

 こうした学校文化、特に女子の学校文化によって形成された内面が発するのが「カワイイ」なのです。学校文化の変遷を辿ることで、「カワイイ」の用法の違いも明らかになるでしょう。少女マンガに見られる教師像の変容を考察するだけでも、学校文化のある側面での変化も認識できます。「カワイイ」を理解したいのであれば、学校文化をシステム論的に分析するのが近道なのです。

 学校文化が変われば、「カワイイ」も衰退していくことになるわけです。もはやかつてと違って、女子高生たちは「カワイイ」を乱発しません。オタクも使うようになっては、「カワイイ」はもう自分たちの微妙な気分を表わすことはできないのです。けれども、その分、社会に定着したとも言えます。学校文化がいかに内面に影響を及ぼしているかを「カワイイ」は体現しているのです。
〈了〉
参照文献
森毅、『ぼちぼちいこか』、実業之日本社、1998年

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