役割から見る歴史(2012)
役割から見る歴史
Saven Satow
Sep. 12, 2012
「歴史は前例が教える哲学である」。
ハリカルナッソスのディオニュシオス『修辞学』
文学や芸術を含めて思想の歴史をシステム論によってたどってみると、独創性はともかく、既存のものを整理する要約者を少なからず発見する。彼らを検討してつないでいくだけでも通時的見取り図を描ける。この「サマライザー(Summarizer)」も、よく見るなら、二種類に大別できることに気がつく。
一つは「リセッター(Resetter)」である。混乱した状況を整理整頓して有効性の喪失を顕在化させ、新たな問題設定を用意する。自身が提案を試みる場合もある。もっとも、こうした初期化作業にはアイロニーが用いられるため、本人には生産性がないことも少なくない。
イマヌエル・カントはリセッターの代表である。彼は『純粋理性批判』において従前の哲学的主張・議論を整理して二律背反によって無効を宣言、人間の自由や当為など新しい問題への転換を促している。
もう一つは「オプティマイザー(Optimizer)」である。既存の見解をまとめて最適化し、汎用性のあるツールを提供する。それは教育的効果を持っているため、当人が思いもよらなかったことに応用されることもある。
経済学における・ジョン・ヒックスは最大のオプティマイザーの一人である。ヒックスは他の経済学者の着想を合成することに卓越した能力を持っている。その最高傑作がIS-LM図表である。
残念ながら、ヒックスは、物理学におけるエルウィン・シュレディンガー同様、専門領域では巨人の一人だが、一般の知名度が低い。そこで、彼のIS-LM装置の意義について少々説明しよう。
経済学の古典と評されている著作のページを実際に開いてみると、曖昧さに面食らうことが少なくない。アダム・スミスの『国富論』やカール・マルクスの『資本論』のみならず、ジョン・メイナード・ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』もそうである。
1936年に発表された『一般理論』を読み進めても、いったい何を言いたいのかわかりにくく、途方に暮れる人さえ少なくない。「古典派経済学」を執拗に攻撃しているので、おそらくそれが中心的メッセージなのだろうと推測はできる。しかし、その古典派経済学なるものが何を指しているのかはっきりしない。ケインズは、それへの批判を通じて自説を差異化しているのだから、当然、読者は困惑してしまう。
そんなフラストレーションがたまる中、ジョン・ヒックスといいう英国の若手が『エコノメトリカ』1937年4月号に「ケインズ氏と”古典派”」を公表する。ヒックスはその並はずれた要約力によって『一般理論』の画期的な意義を解説して見せる。
財サービス市場は計画された貯蓄と投資が総所得の変化を通じて均衡に達する。また、貨幣市場は貨幣の需給が利子率の変化に伴い均衡へと至る。ケインズの言う「失業均衡」、すなわち完全雇用に達する前の均衡を生み出すには、この二つの市場が同時に均衡しなければならない。
ヒックスはこれをヴィジュアル化している。国民所得Yを横軸、利子率rを縦軸にとり、財サービス市場の均衡を右下がりのIS曲線、貨幣市場の均衡を右上がりのLM曲線に幾何学的に導出する。IS曲線のIは「投資(Investment)」、Sは「貯蓄(Saving)」、LM曲線のLは「流動性選好(Liquidity Preference)」、Mは「貨幣供給(Money Supply)」をそれぞれ示す。そうしてこの二本の曲線の交点を失業均衡とする可視化装置がIS-LM図表である。その上で、ケインズと彼以前、すなわち古典派経済学者の政策提言の違いが二本の曲線の勾配に関する解釈の相違に由来すると示す。
ヒックスが行ったのはたんなる『一般理論』の要約ではない。これまで発せられてきた経済学の諸疑問に対して、ケインズの提示した斬新な解答とその根拠に関する教育的解説である。
『一般理論』への案内として活用されたIS-LM装置は恐るべき汎用性を持っていることが次第に明らかになる。IS-LM図表は、短期における価格硬直性を想定した上で、国民所得と利子率を基準に財サービス市場と貨幣市場の同時均衡を分析できる。財政政策と金融政策の効果を分析する簡明なツールであり、それはケインズ主義の賛同者ばかりでなく、その批判者にも使える優れものである。
当局は不況に直面すると、減税や公共事業などの財政政策、もしくは金利の引き下げといった金融政策を考える。政策の有効性は条件に左右され、IS-LM図表はそれを主義にかかわらず分析できるツールだ。後にケインジアンとマネタリストの間で政策勧告をめぐる激しい論争が起きるが、その際にもIS-LM図表の解釈が持ち出されている。さらに、ロバート・マンデルとジョン・マーカス・フレミングは国際公共政策の検討にIS-LM分析を援用している。
バブル経済後、日本の当局は財政政策・金融政策を講じたが、さほどの効果を上げていない。また、リーマン・ショックによって世界同時不況に見舞われたけれども、それに各国政府は対策を打ち出している。こういった当局の判断の妥当性を市民が考察する際にも、IS-LM分析は助けになる。IS-LM装置は市民の経済リテラシーに不可欠なツールである。
オプティマイザーは汎用的なツールを提供するので、主張が古びた後でも、その分野に長く影響を及ぼす。ヒックスがまさにそうである。実は、先に名前だけ触れたシュレディンガーも同様で、彼は非常に使い勝手の悪いヴェルナー・ハイゼンベルクの行列式による量子力学を波動方程式へと転換し、実用的なものにしている。なお、シュレディンガーはDNAの二重らせん構造を予想したことでも知られている。
もっとも、リセッターであれ、オプティマイザーであれ、サマライザーは共通基盤を準備するため、シーンを活性化する。思想史を捉える際、その登場人物をそれぞれの役割から認識してみると、これまでとは別の像が浮かんでくる。
人類学や民俗学の概念を援用するのもよいが、新しい視点から独自のそれを考案するのも興味深い。新たな問題を発するパイオニアや体系を築き上げるコンストラクター、矛盾や齟齬を調べるインスペクター、人と人をつなぐコネクターなどのアクターが思い浮かぶ。こうした類型化は時代的・社会的背景など歴史の固有性を切り捨てることになりかねない。しかし、運動や現象がどのように生まれ、成長して衰退していくか、あるいは発展しきれず立ち消えになるかの過程を明らかにするためには有効である。
日本には優れた学者がこれまでも、「小澤の不等式」で知られる小澤正直名古屋大学大学院教授を始め、今も輩出している。けれども、世界の動向に決定的な影響を与える人は稀である。それは、もちろん、「言葉の壁」のせいでもないし、「発信力の弱さ」のせいでもない。大半の分野で、現在では学際的・国際的なチーム研究が中心であり、日本人も加わっている。彼らを見ていると、秩序が揺らいでいるときに、それを改善することには長けている。言ってみれば、「インプルーバー(Improver)」だ。けれども、混沌の中から新たな秩序を生み出すことはできない。サマライザーがいない。
役割で歴史を見ると、その関係図は同時代や将来の現象や運動にも拡張できる。これもその一例である。
〈了〉
参照文献
根井雅弘、『現代の経済学―ケインズ主義の再検討』、講談社学術文庫、1994年
『ディオニュシオス/デメトリオス 修辞学論集』、木曽明子他訳、京都大学学術出版会、2004年
J・リチャード・ヒックス、『経済史の理論』、新保博他訳、講談社学術文庫、1995年
マーク・ブローグ、『ケインズ以後の100大経済学者』、中矢俊博訳、同文館、1994年