取らぬ狸の皮算用(2013)
取らぬ狸の皮算用
Saven Satow
Jan.07, 2013
「書き言葉と貨幣は、ともにホット・メディアであり、前者は話し言葉を強化し、後者は社会的諸機能から仕事を切り離す」。
マーシャル・マクルーハン『メディアの理解』
つまり、政府の言い分はこうだ。
中央銀行が公開市場操作の買いオペレーションを通じて国債を買い上げて市場に貨幣量を導入し、低金利を誘導、為替相場における自国通貨を安くして、輸出産業に有利な環境を用意する。これによって設備投資と雇用の拡大につなげる。また、輸入品の価格を上昇させ、デフレからの脱却を図る。失業率の改善が最優先であり、インフレを過度に恐れるべきではない。
政府だけでなく、中央銀行も雇用創出に責任を持つべきだという考えは最近先進国の間で広まっている。今述べた日本政府の方針もこうした流れに沿っている。中央銀行が政府と目標を共有して、政策実施することは当然視されつつある。
けれども、中央銀行は通貨の信用を維持するために、独立性が求められている。中央銀行への干渉は政治家の無責任さの現われである。日本の借金の多くは景気対策として実施された90年代の財政出動の際に生じている。財政赤字が膨らみすぎたことで政策の選択肢が狭まった結果、彼らは中央銀行の金融緩和に期待している。財政規律の緩みは国債の金利上昇を招く危険性があり、予算編成を圧迫する。日本の場合、すでに利払いだけで年間10兆円に及んでおり、これは文教予算を上回る。過去のツケが未来よりも大きいというありさまだ。
市場はしばしば経済の警告装置として機能している。市場の圧力が政治に改革を促すことは少なくない。市場の警告に対して当局がやるべき手立てをしているとわからせることは必要だ。齟齬によってあらぬ危機が生じることは避けねばならない。
しかし、それはいわゆる中央銀行によるコミュニケーション戦略ではない。中央銀行がインフレ目標をアナウンスし、市場と共通認識を持つことにより、経済成長を誘引できる考えが世界的に浸透しつつある。だが、経済学的な妥当性以前に、これはコミュニケーションの不可避性を軽視している。
コミュニケーションは意図を前提としない。発信されたメッセージが受信されたか否かにかかわらず、また発信者の意図の有無にかかわらず、受信者が何かを了解したら、コミュニケーションは成立したことになる。金融緩和を継続しないような動きが中央銀行から感じられたら、市場の参加者はさまざまな解釈と思惑で予想できない行動をとる可能性がある。特にも金融は具体的な物の世界ではない。抽象性が高く、理解に曖昧さが入りこみやすい。
先進国は競争力を確保しようと、自国通貨を弱くしている。各国は生産性向上などによる安定的な競争力をつけるよりも目先の結果を追っている。一方で、新興国はインフレに悩まされている。貧富の格差が拡大している中での物価の高騰は政情不安につながりかねない。その新興国に生産拠点を移したり、市場開拓をしたりする企業にとってそれはリスクである。このような国際的不均衡がすでに生じている。金融政策は世界的影響が大きく、先進国が国益だけのためにそれを実施することは無責任である。
日本銀行はすでに10年以上も金融緩和を続けている。それを思い返す限り、金融政策で脱却できる不況なのかどうか怪しい。金融は採算性、産業は生産性によって利益をそれぞれ上げる。両者の見方は異なり、思惑が一致するとは限らない。金融立国や投資立国という構想は実感なき成長に陥る恐れがある。採算性を考えるならば、国内よりも成長著しい海外に投資した方がよい。金融緩和政策は設備投資を促すのが目的なはずだったが、多くの製造業が生産拠点を海外移転したこともあり、海外投資に回ったきらいがある。
90年代に入り、製造業は日本発の独自技術を市場に投入している。その代表が光ディスクである。80年代までの製造業の隆盛はキャッチアップ型で、フロントランナー型に変わったのは、実は、平成不況期である。しかし、フロントランナーのつらさも味わっている。せっかく研究開発しても、後発企業がそれを取り入れてしまい、期待通りの利益を手にできない。さりとて、そのキャッチアップがないと、世界に普及しない。
先進国の成長には技術革新が欠かせない。ただ成長と言っても、3%程度である。これまでの経験からサービス業が製造業の代替にならないことは明らかである。空洞化を新規産業の勃興によって埋める必要がある。製造業の新陳代謝なくして、先進国の実質的成長はあり得ない。
日本の場合、中小企業は独自技術を有しており、国際競争力を保持している。アーキテクチャ論で言うインテグラル型、すなわちすり合せ型の技術に長けており、依然として強い。一方、すべてではないけれども、大企業はブランド力低下により、新興国の企業の追い上げにあい、部門によっては抜かれている。
技術革新を促進するために、規制緩和が必要である。その出現は操作性に乏しく、当局ができることは、取引コストの軽減を始めインセンティブを刺激する環境整備である。技術革新を生み出すのはイマジネーションであるが、その動力となるのはインセンティブである。
ところが、技術革新は既成産業や隙間市場の成長だけに限らない。既得権を脅かす場合もある。そういう勢力は技術革新を望まない。彼らは実証する機会を与えまいとする。それが乏しければ、いかに画期的な技術革新が次々に生まれても散発に終わり、発展できない。
このしみついたキャッチアップ体質がクリエイティブな人材を抑圧する原因の一つである。。イノベーションに取り組めば、リスクがつきまとう。そんな失敗の可能性があるなら、他国で生まれた新技術を真似すればいい。こう考えている組織にはクリエイティブな人材などお呼びでない。日本企業が既存技術のブラシュアップが得意なのはリスク回避が動機である。反面、それはクリエイティブな人材を抑圧し、企業はフロントランナー型に転嫁できずにいる。
大胆な金融緩和を唱えながら、現政府の産業政策は従来の政権と何ら違いがない。技術革新の促進も入っているが、そのためにどういう環境整備をするのかは従前から踏み込んでいない。技術革新が何なのかわかっているかどうかさえ怪しい。何しろ、景気対策に公共事業を掲げる政権だ。ゼネコンは機械化を進め、かつてほど人手を必要としない。
いくら技術革新の旗を政府が振っても、既存産業の既得権を守るように振る舞えば、インセンティブが弱まる。既存産業はさまざまな政治力によるアメとムチで政府に圧力をかけることができる。電力会社を見ればよくわかるだろう。これまで規制緩和はインセンティブの誘引ではなく、短期的なコスト削減に歪曲されている。非正規雇用の拡大と安全性の優先順位の低下がその証左だ。
もっとも、安全性への姿勢が世論の知るところとなった時、企業へすさまじいバッシングが加えられている。食品メーカーはその反発を恐れ、今度は些細なことで回収するなど過剰反応をとり、コスト増大の一因となっている。
インセンティブが重要なのは大きな技術革新だけではない。小さな技術革新は日々の現場で生まれる。現場の労働者の意欲に基づく知恵と工夫が生産性の向上を蓄積していく。中でも多能工は現場のジェネラリストであり、企業の財産だ。
しかし、非正規雇用の増加は絶えずオン・ザ・ジョブ・トレーニングに現場が追われ、こうした小さな技術革新も滞る。一定期間だけの雇用では将来が不安で、緊張や無理を感じ、インセンティブどころではない。また、新興国の労賃が上昇し、そこで生産するメリットが小さくなれば、企業は日本に工場を戻すことも考えなければならないだろう。けれども、その時、国内の労働者の知識や技能が低下していては、迅速に対応できない。
技術革新や雇用創出を促進するインセンティブを引き出す政策を効果的に機能させる。そのための金融政策でなければ、安定的な経済成長につながらない。
迷える20年と呼ばれる時期に、政府がそうしたインセンティブを刺激する政策を十分に提示したとは言い難い。今の政権も同様だ。経済的発想の根本はインセンティブにある。合理的に思考するインセンティブがあればこそ、人は経済的に行動する。インセンティブを欠く経済政策はその名に値しない。
日本経済の状態を病理に譬えて、内科的治療だけでなく、外科的手術が必要だとこの間に繰り返し説かれている。しかし、長期不況なのだから、生活習慣業で、この見立ては不適正だ。
そもそも病気には三種類ある。治せる病気・治せない病気・治らない病気だ。結膜炎には抗生剤を投与すれば治せる。パーキンソン病は今の医学では治せない。心筋梗塞の心臓のバイパス手術は成功率が高い。けれども、生活習慣が改まらないために、再発する人が多い。これが治らない病気である。外科手術が成功しても、その疾病が生じた要因の生活習慣を改善しない限り、再発の危険性がある。生活習慣を見直し、改めていくことが日本再生の道である。
〈了〉
参照文献
藤本隆宏他、『グローバル化と日本のものづくり』、放送大学教育振興会、2011年