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ネタバレ視聴と6代目三遊亭圓生(2022)

ネタバレ視聴と6代目三遊亭圓生
Saven Satow
Jun. 25, 2022

「自分がうまいうまいと思っているときは、逆に芸は下がり、おれはまずいとか、いけないなと思った時には、芸は上がるもので、本人の意識とは反対である」。
6代目三遊亭圓生


 トーマス・エジソンの時代以来、映画の魅力はハラハラドキドキ感でしょう。ところが、近頃ネタバレ視聴をする人が少なくないそうです。どの映画を見るか選ぶ時にはどういう内容か調べることはあります。ネタバレ視聴はそうではなく、結末をあらかじめ知った上で見るというものです。『ドリフ大爆笑』に、沢田研二や伊東四朗が館内で映画を見ているお客にネタバレをして嫌がられるというコントがあります。それは、展開や結末があらかじめわかっては面白くないことを前提にしています。

 しかし、今、この常識に反して映画を見る人が少なくないと『朝日新聞』が伝えています。202261050分更新「倍速視聴、現代を生き抜く戦略 時間のコスパ重視、20代49%が経験」によると、その理由は「背景を探っていくと、わかりやすさを求め、失敗や無駄を恐れる若者の風潮や、見たいものだけを見たい、不快なシーンやドキドキする展開を嫌う『快適主義』といった心理が見えてきた。結末を知った上で映画やドラマを見る『ネタバレ視聴』もあるという」ことです。

 目新しい現象を発見すると、往々にして世代論からその理由を説明しようとします。文化論同様、あまりあてにすべきでないでしょう。ただ、時間感覚の慣れというものはあります。6代目三遊亭圓生師匠の怪談『牡丹灯籠《ぼたんどうろう》』や『真景課ヶ淵《しんけいかさねがふち》』を聞くことになったら、おそらくネタバレ・リスニングするでしょう。怪談ですから結末がわかっていては面白くないと思われますが、これはとにかく長い噺です。『牡丹灯籠』が5時間、『真景課ヶ淵』が7時間を超えます。師匠は名人ですから、聞いていて惹きこまれます。しかし、これだけ長ければ、ネタバレでないと、目的地がわからないまま道をさまよっている感じで、どうにも落ち着かなくなるのです。

 今の落語はだいたい1時間以内で終わりますが、師匠は1時間強が多いのです。慣れていれば、聞いていて流れがわかりますから、結末はもちろんのこと、内容がわからなくても、今どのあたりを話しているか認識できます。けれども、5時間や7時間となると、この流れがつかめないので、落ち着かなくなってしまうのです。

 今日は、SNSの普及に伴い、動画に接する機会が増えています。ただ、TickTockは言うに及ばず、YouTubeの動画も概して短編です。短い映像に慣れて、長いものを見ると、落ち着かなくなり、ネタバレ視聴をしてしまうように思われます。

 実際、Twitterで『文七元結』が話題になった時、6代目によるその噺をYouTubeで見つけたものの、1時間程度の長さと知り、長いとしてネタバレ視聴をした人も散見されています。そもそもテレビならながら視聴ができるけれども、画面の小さい携帯端末は集中して見なければならず、疲れます。10分そこそこならともかく、ちょっとした情報を知るために1時間の動画を見る人は、若者に限らず、そういないものです。

 ところで、6代目は、実は、ネタバレ落語をやったことがあります。落とし噺の枕でそのサゲについてあらかじめ語るのは、噺家にとってはなはだ不利です。『目黒のさんま』や『寿限無』のような筋もオチもよく知られた落とし噺であっても、お客は最後にそれを聞くのを待っているでしょうから、のっけからサゲを明かすことはしません。ところが、この人は『居残り佐平次』の枕で前々からこのサゲの意味がわからなかったと切り出します。このオチというのが「おこわにかける」です。

6代目は大正の中頃に柳家小せんからこの噺を教わったけれども、だいたいどういう意味なのか誰も知った者がいないと言います。お客もわけがわからないまま笑っていたというのですから、とぼけたことです。サゲを取り換えようかと思ったものの、適当なものも見つかりません。そうこうしているうちに、ようやく「おこわにかける」が「姦通罪」のこと判明します。

6代目は、「姦通」と言われても、若い方はご存じないだろうからとその説明を始めます。戦前は既婚女性が別の男性と関係を持った場合、夫がそれを訴えるのが姦通罪です。近世の武士においてそれは「めがたき(女敵/妻的)」と言い、妻を切り殺してかまわないというものです。相手の男性がたとえ遠くにいたり、逃げたりしていても、どこまでも追いかけて命をとることも許されています。もっとも、親の仇うちと違い、名誉なことではありません。

 町人でも同様の対応が許可されています。ただ、実際には相手を脅し、カネで片をつけることになります。しかし、中には夫婦馴れ合いで、仕組むこともあります。鼻の下の長いカネのありそうな男性を見つけて、妻が色っぽく持ち掛けます。いよいよとなると、夫がそこに踏みこみ、カネを脅し取るという手口です。

 その際、妻が相手に「こんなことが亭主に知れたらどうしよう、あたし命がないのよ、『おおーこわ』」と口にするのが常です。この「おおーこわ」が「おおこわ」、「おこわ」になり「おこわにかける」という言い回しが生まれたというわけです。つまり、ありていに言いますと、「おこわにかける」は「美人局に引っかかる」という意味です。

 『居残り佐平次』の主人公は男性ですので、美人局ではありません。けれども、女郎屋の主人が騙されたことを慣用句によって言い表しているのです。

 6代目自身も認めている通り、このサゲはわかりにくいので、柳家権太楼師匠はこれを取り換えています。「おこわにかける」ではなく、「居直り」に変えているのです。「居残り」の上の「居直り」にされてはたまらないと結末を変更しています。騙されて口惜しいというのではなしに、関わり合いになりたくないという心持です。

 ただ、権太楼師匠は元のオチについて説明していません。初めて聞いたお客はこの噺のサゲがどういうものだったかおわからないでしょう。もちろん、サゲを取り換えることが悪いと言っているのではありません。実際、6代目もサゲを変えることがあります。

 権太楼師匠に不満があるとすれば、オチではなく、主人公の想定がおかしいということです。主人公佐平次はクレージー映画で植木等が演じるような調子のいい人物です。また、映画『幕末太陽傳』ではフランキー堺がこの左平次を演じています。ところが、師匠は彼を松村邦洋のごとく陽気で騒々しいキャラクターにしています。これではどうしてみんな騙されるのか理解できません。

6代目は、サゲを取り換える場合、元のオチを明かし、変更の理由を説明します。噺というものは今のお客に楽しんでもらうだけでなく、語り継がれてきたものでもあります。6代目はしばしば枕でその噺を誰から学んだかについて触れます。系譜を示すことで噺や自身を落語の体形に位置付けているのです。サゲを自分の考えで変えるなら、そこを話しておくことが必要でしょう。自信があるなら、なおのことです。

 そうした一例が『三十石』です。これはもともと大阪の噺で、師匠の4代目橘屋圓喬が明治17年(1884)頃に東京で披露した時に、サゲを変えています。本来のオチは「権兵衛こんにゃく船頭が利」というものです。これは地口落ちで、元の言葉は「権兵衛こんにゃく辛労《しんどう》が利」、すなわち「骨折り損のくたびれもうけ」です。もっとも、6代目によると、このサゲは大阪でもすでに使われていません。

 サゲの取り換えはそこだけにとどまらず、結末の部分も元の噺から変更されています。6代目はそれも枕で解説しています。橘屋圓喬の後、その型を踏襲しつつ、5代目の三遊亭圓生が舟歌を加えるなど改変しています。6代目はそういう履歴に則って、噺を始めます。ただし、この型のサゲのネタバレはしません。

 6代目は、他でもサゲの変更がある場合、その都度同様の説明を行っています。『二十四孝』のサゲは「なんこ」、すなわち薩摩拳にかけてありますが、これ自体もう知る人はほとんどいなくなっただろうから取り換えたと言っています。これは拳遊びの一種で、主に2人で行います。3本の短い棒がそれぞれに渡されます。03本の棒を握り隠してこぶしを前に示し、2人の合計本数を当てて、勝敗を競うのです。賭博としても利用され、かつては広く普及していましたが、今では知る人も全国的に少なくなっています。

 「おこわにかけられる」や「権兵衛こんにゃく」、「なんこ」は現代人にはもはや縁遠いものです。それを取り替えて話す方がお客には理解しやすいことは確かです。けれども、それに触れることで昔についての知識が高まります。加えて、今とは違う時代の気分を実感できるのです。

 落語の舞台は主に近世です。それは近代と政治・経済、社会の体制が大きく異なっています。噺はそうした時代を暗黙に前提にしています。

6代目は、枕の際に、その噺に関連する消え去った民俗学的な知識について解説します。それは本を読んでもわからない、あるいはあまりにありふれていたために触れられていないものです。そうした情報に言及して、その時代の気分を6代目は語ります。

 噺の世界はそれを前提にしていますが、現代のお客は共有していません。暗黙の知識を知らないまま、噺を聞いても十分に理解できません。わからなくても面白ければいいだろうと思うのは現代人の自惚れです。今と違う時代だからこそ、自分たちにとって当たり前のものの見方が相対化されて、別の笑いを体験できるのです。

6代目は噺をどう時代に合わせるよりも、その時代に寄り添う方を優先させています。それにより民衆文化の語り部たりえ、名人と呼ばれる噺家なのです。その自覚が6代目の膨大な量のレパートリーにつながっています。

6代目は枕で噺に関わる川柳や狂歌、落首、都々逸などをよく引用します。けれども、それらの多くはネット検索してもヒットしません。『品川心中』において、心中を誘発するという理由で幕府が豊後節を禁止した際、「粋すぎし 梅の名題の豊後節 語るな聞くな 心中の種」という落首が立ったと紹介していますが、ネット上に見当たりません。また、『猫定』のように、6代目以降、誰も演じていない噺もあります。そうした民衆の集合知識は6代目の落語の記録がなければ、完全に失われた可能性が大いにあります。6代目は生きた図書館だったと言えます。

 近世ほど離れていませんが、戦前の民衆文化にも現代と違う発見があります。『蝦蟇の油』は、落語の噺としての正味10分程度ですが、6代目はその枕で幼い時分から見聞きしてきた縁日の様子を語り、50分くらいにしています。時間の都合がある時はそのエピソードをいくつか飛ばして詰めるのですけれど、やっぱり長い方が面白いのです。それは、今ではお目にかかれないものばかりで、昔の縁日の安っぽく、いかがわしくて、人を食ったような見世物の様子がわかるからです。本を読んだだけではわからない気分が追体験できるのです。

 民衆文化の観点から落語の歴史を再構成することが柏木の師匠の試みです。6代目三遊亭圓生は民俗学者的落語家と呼ぶことができます。柳田國男が噺家をやっているようなものです。民衆文化というものは草の根として育まれます。です。ですから、柏木の噺のネタがバレても、話のタネは生えるものでしょう。
〈了〉
参照文献
「倍速視聴、現代を生き抜く戦略 時間のコスパ重視、20代49%が経験」、『朝日新聞』、2022610 500分更新
https://www.asahi.com/articles/DA3S15320445.html

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