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プレプリントから見る権威主義(2006)

プレプリントから見る権威主義
Saven Satow
May. 06, 2006

「この問題は我々をはるか遠くの世界へと連れて行くことになるだろう」。
アンリ・ポアンカレ

 20世紀初頭、アンリ・ポアンカレが提出した難問、いわゆるポアンカレ予想が解けたのではないかと世界各地の研究者やメディアで話題になっています。アメリカのクレイ数学研究所が100万ドルの賞金を掛けたミレニアム問題の一つで、ロシアのステクロフ数学研究所に勤務するグリゴリー・ヤコヴィエヴィチ・ペレルマン(Grigory Yakovlevich Perelman)博士が2002年から03年に亘って発表した論文がそれを解いているようなのです。

 現在、まだ検証段階ですが、多くの数学者がこの証明は正しいと考えています。8月に、スペインで国際数学者会議が開かれる予定ですから、ここでポアンカレ予想が解決したと宣言されるのではないかと見込まれています。

 ペレルマン論文は少々ラフなため、補足研究が必要だと思われています。こういうことはアカデミズムでしばしば起きる事態です。当のポアンカレも、学生時代から、アイデアを思いつくままに、雑な部分の残る粗っぽい論文を書くことで知られています。粗くても、華麗な彼の発想は、批判されながらも、その修正や説明によって新たな数学を発展させています。

 実は、ペレルマン論文はネット上で公開されているだけで、権威ある雑誌に掲載しているわけではありません。いわゆる「プレプリント」です。この1966年生まれの数学者は何度かこの件に関して研究セミナーで公演しているものの、雑誌に投稿する気がないと見られています。

 19世紀の学者は、理論や自説を書籍を通じて発表しています。一方、20世紀の研究者は、『ネイチャー』誌を代表に、厳正なレフェリーによるチェック機能が認められる権威ある雑誌に成果を投稿します。雑誌の権威がその論文の正当性を保障するのです。

 学術雑誌の権威を「インパクトファクター (Impact Factor)」と言います。これは1955年にユージン・ガーフィールドが考案した指標で、元々は引用頻度を基準にしています。よく引用される論文が載っている雑誌の影響度は高いというわけです。今日ではさらに精緻化され、毎年トムソン・ロイターの引用文献データベースに収録される資料を元に算出されています。

 現在でも、一般的に、単独の著作を刊行する方が雑誌に掲載するよりもハードルが低いのです。書籍であれば、おかしなことが書かれていても、作者の問題に還元できます。一方、雑誌の場合はその権威に傷がついてしまうのです。

 ところが、その状況が1970年代くらいから変化し始めます。最大の理由はコンピュータの普及とそのネットワークの登場です。

 1976年、イリノイ大学のケネス・アッペル (Kenneth Appel) とウルフガング・ハーケン(Wolfgang Haken) は4色問題と呼ばれる難問を解いたと発表します。この問題は平面上のどんな地図でも4色あれば塗り分けられることを数学的に照明するものです。しかし、彼らはこれを頭の中と紙の上で直接解いたのではありません。数式の代わりに、プログラムを書いています。つまり、コンピュータを使ったというわけです。

 しかし、これを「証明」と認めていいかどうかは専門家の間でも意見が分かれます。どうやって確証したらいいのか、またコンピュータのトラブルやプログラムのミスの可能性も否定できないなどの疑問の声が上がります。実際、プログラムにミスが見つかったのですが、それを非難する専門家に彼らは、プログラムにはミスやバグはつきものであって、発見したら、そこを修正するものと反論しています。プログラムの方が専門家以外にも読めるのですから、むしろ、チェックが厳正に行われるとも言えるのです。

 別のハードウェアと異なったプログラムを用いても、同じ結果が導かれたなら、それは正しいと判断されます。今日、4色問題の解決を否定する専門家はいません。

 もしこうした解法が認められないとしたら、ゲノム解析に手がつけられることはなかったでしょう。コンピュータの開発は数学に事実上と原理上の二つの解答不能を登場させています。研究でも、力仕事は、労働と同じく、機械を利用するという認識が定着しています。

 さらに、世界的なネットワークの形成と発達は研究成果の発表方法とスピードを大きく変えています。

 権威ある雑誌はそれを保つために、厳正なレフェリーに論文の可否を審査してもらった上で、掲載します。けれども、専門化が進んでいるせいもあり、一つの論文が掲載されるまで5年も費やすことさえあるのです。クレジット自体は登録された時期になりますが、現代の時間感覚から見れば、遅すぎます。

 ペレルマン論文にしても、ネット公表からすでに3、4年も経っています。おそらく雑誌に投稿していたら、ポアンカレ予想が解けそうだというニュースをメディアはまだ伝えていないに違いありません。

 スピードを重視するため、査読なしの雑誌やアンデパンダンな雑誌が登場します。「アンデパンダン(Independent)」は所定の出品料を支払えば、誰でも自由に参加できる無審査、無賞の展覧会の総称で、雑誌にもそういった類のものがあります。19世紀後半、フランス政府が実施していた展覧会のサロンの審査が厳しく、かつ保守的であったため、ジョルジュ・ピエール・スーラやポール・シニャックらが中心となり、落選画家や反アカデミズムの画家が1884年にパリで開催したサロン・デ・ザンデパンダン(Salon des Independent)に由来します。ただし、この展覧会にしても、権威主義化し、マルセル・デュシャンの『泉』を断ったことがあります。

 自然科学の場合、基準は真偽ですから、これらの雑誌はあくまで発表までの時間短縮が目的です。論文の真偽は読者に任され、雑誌自身は一切保障しません。オープン・ソース・コードのように、公開してその可否は読者に広く審査させているのです。森毅の『数学と人間の風景』によると、「かえってそこへ投稿する人間はプレッシャーがかかって、いい論文しか出さないという噂」もあるようです。

 さらに、こうした雑誌にさえ投稿しない研究者も現われ始めます。活字以前の原稿や草稿、すなわちプレプリントを仲間内に見せている間に、それが話題となり、研究セミナーやシンポジウムなどに呼ばれて話をしたり、電子メールやチャットでコミュニケーションしたりしていることで評価されることもあります。今回の論文も”ArXiv”というプレプリント・サーバーに登録されています。専門にしているサーバーがあるように、自然科学ではプレプリントも実績と認められるようになっています。

 ただし、レフェリーがいないだけで、プレプリントでもフォントの指定を始め書式の規定はあります。通常、TeXで投稿することが求められています。

 こうした公開は、別に、審査の甘さを狙っているからではありません。オープンにすることで、より多様な目で監視され、もっと効率的かつハードな審査をその研究成果に銜えるためです。ネット社会における匿名性は副産物にすぎません。

 しかも、それは既存の権威ある雑誌の権威の正当性もチェックされることになります。文芸誌に対してもそうすべきでしょう。権威に囚われていては、変化に対応できません。

 韓国の黄禹錫元ソウル大学教授の事件のように、論文捏造は成果主義のみならず、権威主義から生じます。権威ある雑誌に掲載されれば、それは真実だということになります。おかしいと感じたとしても、あの雑誌に載ったのだからと関連する研究が続けられ、膨大な時間と金が費やされた後に、ようやくそれがペテンだと気がつくことになってしまうのです。医学・生物・化学は生命体に対して応用される可能性が高いため、理論物理などと比べて、厳しいチェックを不可欠にしています。それでも通過してしまうケースがあるのです。

 もちろん、公開してあれば、多くの目が監視しているから、安全性が高いとは必ずしも言えません。厳しいチェックを誰かがしているだろうと思いこむのは危険です。公開がアプリオリにその安全性を保障してはいないのです。少し前ですが、2002年、マイクロソフト社の製品に採用されていたオープン・アーキテクチャの圧縮ライブラリZlibの脆弱性が明らかとなっています。最新で人気の高いソフトのソースであれば、注目されます。しかし、そういうソフトは全体のわずかです。残りは作者以外に関心を持っていないのが実情です。

 これは、ネット社会特有どころか、活字メディアの時代から引き続いているものです。多くの学術論文は筆者と審査員だけが目を通し、歴史の彼方へと忘れ去られていきます。また、論文の重要性は他の研究者から引用される回数が基準の一つですが、仲間内で引用しあって、見かけ上、それを高めた連中もいます。グーグルのランクを上げる抜け道の考案が後を絶ちませんけれども、人というものはなかなか変わらないものです。

 情報氾濫により表面的には開かれていながら、実態は閉じられているのです。オープンとはある程度の知識・技術を持っている者にとって意味があることであって、それ以外にはクローズドと同じです。コンピュータが民主化された現在、こういうソフトはネット上に溢れていますが、プログラムを理解できないユーザーには気の毒というものでしょう。

 そこで、アメリカの国防総省高等研究計画局(Defense Advanced Research Projects Agency: DARPA)はオープン・ソース・ソフトウェアのセキュリティーを確保するため、CHATS(Composable High Assurance Trusted System)計画を通じて各種の研究プロジェクトを援助しています。もちろん、それにしても、膨大なネット情報を完全に制御するなどできませんし、そういうものだと知った上で、向き合うしかないのです。

 オープンは権威に依存しない姿勢、すなわち権威主義に懐疑的に接する批判的態度を指します。権威は閉じられた空間で、平衡に達した状態で効力を発揮します。批判を嫌うのです。と言うのも、批判はものの見方を広げるからです。けちをつけることや勝ち負けを争うことではありません。

 オープンは公開自体を意味しません。それは、クーリングオフについての注意事項が細かな字で見つけにくい場所に記されている契約書と同じです。そこに批判的コミュニケーションがなければ、異質さが入りこみ、平衡が揺らがなければ、開かれていることにならないのです。無数の多様な批判にさらされたものが結果としてオープンと見なせるのであって、そういう過程を経ないとしたら、クローズドです。オープンと名乗るなら、それが体現されていなければなりません。

 権威によって制御できないあやふやな現代社会には、こうした批判的コミュニケーションをうまく使える技術が不可欠でしょう。それは森毅が「社交」と呼ぶものにほかなりません。「普通、人と人の間は言葉を通じて絆をむすぶというが、どちらかというと、言葉は絆というよりも隙間を埋めるキノコの菌糸に似ている。人と人との間には隙間があるから、その隙間に言葉の菌糸が広がり、それでつきあいが生まれるのではないかというのがキクイムシの説だ。社交にはそういうあやしげな香りがあったほうがいい」(森毅『おしゃべり社交術』)。
〈了〉
参照文献
森毅、『数学と人間の風景』、NHKライブラリー、1995年
同、『ええかげん社交術』、角川oneテーマ21、2000年
同、『異説数学者列伝』、ちくま学芸文庫、2001年

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