【つらい】【自殺】哲学で救う心のつらさ ~自体純粋~

死にたいくらいつらい、そんな方に哲学の抗苦痛薬をご用意します。今回は「自体純粋」という概念の概論となります。

自体純粋の思想について

自体純粋の考案


この自体純粋と言われる思想は、私の精神疾患との闘いのなかでじっくりと少しずつ形成されていったものである。まだ思想として未熟であり、他者に見せられる代物でもないのではあるが、概略だけでもご紹介できればと思う。


自体純粋の基礎


まず、自体純粋をざっくりと述べてみよう。自体純粋とは、認識主体の利害や価値付加以前の、現象や事象のありのままの状態を見て、害としてとらえ苦痛になっていたところを無害と捉える手法のことである。我々は世界は外からやってきているものだと普段は考える。しかし本当にそうだろうか。哲学の現象学においては現象学的還元といって、この世界は認識主体の意識に還元されるという思想がある。自体純粋はそれを応用した概念である。もちろん、世界自体は外からやってくる。しかしそれを解釈し、意味あるものとして捉えるのは認識主体の意志なのである。つまり認識主体の意志なしでは世界は純粋なものと捉えることができるのである。その意志なしで自体が純粋である世界を直接に捉えるのが自体純粋の手法である。ドイツの哲学者ショーペンハウアーの言葉を借りれば、これは「生きんとする意志の否定」となる。


無汚諦


理解を進めるために、ここで無汚諦の概念を導入しよう。無汚諦とは、世界そのものは何の汚(けが)れもなく純粋であることを表す言葉であり、すべての苦しみは認識主体の中にあるのであって世界にはないという意味を持つ。外から苦しみがやってくるのではなく、私が世界を苦しく構成しているのである。そしてこれは我々の世界認識の根源にも迫っているのである。


自体純粋の機序


では、いかにして自体純粋は苦しみを取り除くのか。それこそ、苦しみの制御可能性にある。世界から苦しみがやってくるのではなく認識主体が苦しく構成しているのだとすれば、その苦しみを取り除くには認識主体の解釈の変更さえあれば充分である。そしてその解釈の変更する先にあるのは自体純粋の概念なのである。

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