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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<95>

バカ娘

ジャムサンドを無理やり口に押し込み、職場へと30分歩いて向かう。家を出る午前8時前後、それは私にとってまるで執行を待つ死刑囚のような気分になる時間帯であった。今日は来るか、今日も来るかと......。

「行ってくる」と家を出ようとすると、母がわざとらしく項垂れる。そして一瞬顔を上げあの不気味な不自然な笑顔で「頑張って行って来てね......」と口は言い、なにがあったか訊いてくれと全身で訴えている。
また茶番が始まった。金の要求だ。
無視して会社に行こうとしたり「またお金?無理だよ」と断ると
「じゃぁもう、死ぬしかないね」と包丁を待ちだして騒ぎ出すか、
「じゃぁ誰か近所の人に頼むしかないか。はぁ、でも今度お金を借りに来たらお父さんに言いつけるって言われててね、そうしたらお母さんまたぶん殴られるけれど、お前はそれでもいいの?」と金を貸さないという選択肢が取れないようにと脅しにかかり、金を貸した方がマシという方に仕向けるのであった。

私はうんざりしながら「なに?どうしたの?」と訊くと
「なんでもないよ......」と言いながらまた気味の悪い笑顔を作る。何故、いつも金を借りるのにこんな茶番が必要なのかと呆れるが、毎回毎回毎回、この流れだった。

「あ......なんでもないんだけどね、あ、お前には分かっちゃうか、そうだよね、お前は神経がか細いところがあるからね。じゃぁ聞いてくれる?あのね、この間ね、お父さんにお金貸してと頼みに行ったら断られちゃったの。お母さんね、それじゃ子供たちの食事が作れないって言ったんだけど、お父さんはあんたのことが嫌いみたいね、お金は出せないってさ。このことをお前に言うとお前が傷つくと思ってずっと黙ってたんだけどね......逆にお父さんに今まで面倒見てやった金返せ!と言われちゃったの......。だから、お金貸してくれる?」
「.....いくら?」
「3万......本当は5万円だけど......ダメだよね?」

父はオンボロけやき荘から15分くらいのアパートを見つけ、一人で住んでいたが、出て行けと言った張本人なのに母はしょっちゅう金をせびりに行っていた。父は生活に十分なお金を家に入れていたのにもかかわらず。

出勤前の忙しいときを狙って金を脅し取ろうとするなんて悪知恵だけは働く。仕方がないので母の言う通りにする外なかった。

職場近くの銀行まで母が付いてくる。私は頑なにキャッシュカードを持とうとはしなかった。母に気軽に、今からお金を下ろして来いと言わせないために。けれどこれではまるで意味がない。

いつもは節約して徒歩で職場まで行っていたが、母は肥満体ののろまなので一緒だとバスに乗って行く羽目になる。そうでなければ始業に間に合わない。バスの中で母は気味悪いほど優しく声を掛けてきた。
「寒くないか?」
「今日のお昼ご飯、食堂で唐揚げだといいねぇ」
金を貸してくれる私にゴマを擂っているのが見え見えだったし、同時に周りの乗客に娘を気遣う優しい母親をアピールしているのもたまらなく嫌だった。

銀行に開店ぴったり位に着くと払い戻し用紙を記入して窓口に持って行く。
週2回くらい、朝一で来る若い女とその汚いなりをした母親らしき女。キャッシュカードを勧めても断る。どう見ても訳ありだろう。きっと行員にはおかしなあだ名を付けられていたに違いない。

下ろした金を母に渡すと
「ごめんねぇ」としおらしい声を出した。母のことなど忘れて、仕事場へ急ぎ足で向かわねばならない。銀行の前の横断歩道で青信号を待っていると同じ部署のパートのおばさまがいた。母と一緒のところなんて知り合いに見られたくなかったのでどうか気付かないようにと願ったが目が合ってしまった。

「おはようございます」とおばさまに挨拶すると母は
「なに、職場の人か?」と私に訊いた。無視していると
「あ、おはよう、そちらはお母さん?」とおばさま。
「あ......」
「いつもバカ娘がお世話になっております、この子、あんまり役に立たないでしょうがどんどんこき使ってやってくださいね」
おばさまは
「いえ、いや、そ、そんな、こき使うだなんて......」と母に気圧されていた。

出勤前に金を脅し取られみじめな上に恥ずかしい思いをした。子供から金をむしり取ってもいけしゃあしゃあとしていられる母。私はこんな人と本当に血が繋がっているのか。ああ、これが私の日常。早くなんとかしなければ。

その日の社員食堂のメニューには唐揚げがあった。ああ、呪われている。私は好物を選ばず、ラーメンを啜った。