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タヒチの女 ー母の死についての覚書 21


2枚の海づり公園の券。これが何を意味するかすぐにピンときた。そして、印字された日付を見て愕然とした......母の死の一週間前ではないか。
今、6畳間で娘夫妻と上機嫌で何やら話している男こそがムルソーではなかろうか......いや、母の死ぬ日の朝に山小屋のブログを見ていた私もそう変わらないか......父たちは太陽が眩しかったからではなく、潮が良かったから釣りに出かけたのだろう。
ーー子供の頃、父の釣行によく付き合わされた。あれはどこの海だったろうか、いつもは磯か海づり公園ばかりなのに、貸しボートに乗って。魚は一匹も釣れなかったけれども、空がやたら青くて、すじ雲がすぅっと流れていた......

この家の人のことは、もはや何を見聞きしても驚かなかったが、何を知っても動揺しないというわけではなかった。それにしても次から次へと色んなことが出て来るものだ......。

6畳間からずっと話し声が聞こえてくる。どうやら妹はどこかのタイミングで家を購入したことを父に話したようで、父が不躾にも婿に家はいくらだったか、毎月いくら払っているのかなどと訊き、その度に妹が
「もう、お父さ~ん、いいじゃんそんなの」とうんざりした声をあげていた。

ーー柑橘を切る。母は、料理などロクにしない人だった。包丁は料理をするより専ら「死んでやる」と私や父を脅すときに使われたのだったが、私は母が刃物を使って自傷行為や自殺企図をしている姿を一度も見たことはないし、多分したことはないのだろう。
ーーメロンを切る。母は入院中に、メロンーーアケミが父に持たせたーーをどういう思いで食べたのだろうか。父は母にプレゼントの一つもしたことがなかったというから、好物のメロンを大層喜んだに違いない......。
「お父さん、最近優しくなったと思わない?」数年ぶりに会った母、病に侵され余命いくばくもない、目も見えぬ母が言った言葉を思い出していた。

ああ、聞きたくもない、知りたくないことばかり。

色んな感情が渦巻いて包丁を手にしたまま倒れそうになっていると寿司が届いた。
父は特上を4人前頼むようにと言ったが、私は寿司が大の苦手で、3人前で作ってもらった。
「お前、これ、本当に4人前か?」
「そうだよ」
「お姉ちゃんお寿司嫌いじゃなかった?」
「うん、ちょっとね」
「じゃぁピザでも取れや、昔よく頼んだもんな。好きなの取りな」

母を弔う食事会は夕方まで開かれた。
車で来ているのをまさか忘れたわけじゃなかろうに、父が婿にしつこくビールを勧めたりなどしてひと悶着あったが、幸い大きな争いごとはなく終わった。
ポケットが何だかガサガサしているなと思ったら、先ほど寿司屋に支払いしたレシートだったーー父に4人前を頼めと言われたのに3人前を頼んだことが見つかると面倒だと思って咄嗟に突っ込んだのだった。
証拠は残してはならない。私はレシートを折りたたんで財布にしまった。

疲れた、やっと帰れる。私は妹夫妻が家まで送るという申し出を断り、駅までゆっくり歩くことにした。