タヒチの女 ー母の死についての覚書10
日に日に完全な死体になってゆく母。
幸いなことに、母に肉体的な苦痛はないとのことだった。
何も知らないまま、死んでゆくことになるだろう。
死の恐怖を感じることのないまま。
私を苦しめ、私の人生を滅茶苦茶にした人の肉体的な死。
まったくずるいじゃないか。あんな散々なことをしておいて、
家族に、私に面倒をみてもらえて、人間らしく葬られるなんて。
ガンが発覚した時にはすでに末期で手の施しようもなく、我々家族は積極的な母の延命はしないことに同意していた。
全身を管で繋がれ、わずかな量の食事を摂るとき以外はほぼ寝たきりの母で
あったが、病状が「安定」してきたので今いるN総合病院ーー急性期病院から別の病院へ転院することが打診された。
とてもではないけれどあの母を、あの父が在宅で介護することは到底不可能だったから。勿論、私にも。
最後にN総合病院で母に会ったとき、母は上機嫌で私に気づくやいなや
「里香かぁ?あ、また間違えた、ごめぇん、美穂。美穂、こっち来て。一緒に寝よう。隣来てぇ」と流木のように細くなった手でベッドを叩いた。
昼食の時間には母のお気に入りの看護師が来てくれたのでますますご機嫌な様子であった。
「ヤマカワカズヨ、ヤマカワカズヨ......」と母はつぶやき、看護師が「ん?」とスプーンを持つ手を止めたので
「あ、旧姓を言ってるんです、『山川』って」とフォローを入れた。
「南さんは~、山川さんだったけど、結婚して南さんになったんですね」
「はい、そうです」母がいつになくしっかりとした口調で答えた。
私生児だった母......父親が違う兄弟姉妹が何人もいる環境で育った。
母の母、私の祖母の夫は遠い国で戦死したらしい。戦後の混乱の中極貧で、弟の父親と名乗る男に母はいつも暴力を振るわれていたという。
母は自分がどんなに少女時代にみじめだったかを事あるごとに話しては同情を買うのに執心していたが、肝心なことーー素性については頑なに口を閉ざしていた。ただ、一度だけ父親に会ったことがあり、そのときとても気持ち悪いと感じたことと、父親の仕事が「船乗り」であったことは聞かされたことがあった。戦後、船乗り、父親の違う兄弟姉妹......こんな女に誰がしたーー哀しい女性が、投げやりともいえる調子で歌う歌......私は中学生の頃に2度、ハマのメリーさんを見かけたことがある。初めて見かけたとき、白塗りの顔、真っ白いドレスの老女にびっくりする間もなく、あまりの神々しさに息をのんだ......
母が無教養なのは母のせいではない。その背景には貧困が、戦争が......でもそれは母にはどうしようもなかったことだ。
昼食後、母に練乳がけ苺を食べさせようとしたら
「ヤマカワカズヨ、ヤマカワカズヨ......」とまだ繰り返していた。
意識のある母に会ったのはこれが最後であった。