タヒチの女 ー母の死についての覚書11
病室を出て、エレベーターに向かう途中で看護師に声を掛けられた。
「お母様のことなんですけど......お知らせしようかどうかちょっと考えたんですけども......」
母は、あろうことか看護師や同室だった患者の家族に金を無心しようとしたというのだ。
暇だからなのか、愛人がいるという後ろめたさなのかは知らないが、毎日
見舞いに来る父にではなく、たまにしか来ない私に知らせてくるあたり、うちの家族の事情を見透かされているのかなと思った。
昔から母は近所の人や私の同級生の親に金銭や物を借りて周り、いつまで経っても返さない母に業を煮やした人たちが家にやって来たことが何度もあったが、死まであと何日かという状態でも人に金を無心する母......一体何のために金が必要なのだろうか?管に繋がれ、ほぼ寝たきりで、目も見えぬというのに。
もうこれは、母の病、不治の病なのだろう。生まれてから死ぬまで侵され続けた病......。そんな病識のない母が、もうすぐ死ぬ。でも病名は、ガン。
母はN総合病院の近くのK病院に転院が決まった。
病院のウェブサイトを見た限り、K病院はN総合病院よりずっと小さくて、言葉は悪いが姥捨て山のような印象を受けた。
子供の頃、近所に「あそこに行くと患者はみんな死ぬ」と噂される病院があり、とんでもないヤブ病院だと思っていたのだが今思えばもう手の施しようのない、ただ死ぬのを待つだけの病人が行きつくところだったのだろう。
「おかあは今日K病院行ったから。もうN総合病院にはいないからな」
N総合病院を気に入っていた母を転院させるのにどれだけ苦労したかという話を父は電話で延々としてきた。
「おかあの葬式、どうしようか。墓も。葬式っていくらくらいするんだ?」
父が「いくらするのか」と訊くときはその費用を出してほしいということだと私は知っていた。
「この間、パンフレット、紙を渡したでしょう。海洋葬の。海に散骨するってやつ。お母さんはずっとタヒチに行きたいと言ってたし、タヒチは無理でも海なら喜ぶんじゃないの」
私はインターネットを使えない父に代わって、永代供養の墓所や読経も戒名もなしの直葬をする葬儀社の何軒かに問い合わせて資料を取り寄せていた。海洋葬を提案したのは、その中で一番安価だったのと、墓がなければ墓参りをする必要がないこととーーここ最近、いやひょっとしたらもっと前から、母に対する父の態度があまりにも見ていられなくて、母に対する憐憫の情が強くなっていたからである。せめて海へ帰してあげたかった。
「『タヒチの女』って絵知ってる?お母さん、あれに似てるって昔よく言われたの。タヒチって行ってみたいわ。でも飛行機怖そうだからパス」と母は
よく嬉しそうに言っていた。
母が笑うのを見たのは、近所の犬と戯れているときとタヒチの話をするときだけであったーーあのときだけはまるで童女のようだった。
「お前、海に撒くっていうけどよ、それじゃ兄貴に格好がつかないべよ」
伯父が、そんなことに口を挿むとは思えないのだが......。父はいつも見栄っ張りで、特に伯父には負けたくないという気持ちを昔からむき出しにしていた。
「でもお母さんは......」
「それはまぁ、追い追いな。それより葬式が先だしな。まぁ、あいつにはえらい金がかかったなぁ......はぁ、嫌んなっちまうよ。そうだ、昨日よ、あれ、アケミに仏壇の店行って来させたんだけどよ、えらい高いのな、仏壇とかあのチンって鳴らすやつって。入院費もよ、いくらかかるか......はぁ、お父さん頭痛ぇわ」
愛人の名前が「アケミ」だということを初めて知った......いや、そんなことより愛人に、妻のための仏具の値段を調べさせるとは。そしてそれを抵抗なくしている「アケミ」の神経......
妻が死んだら万歳だ、一緒になろうという気持ちなら正直、とんでもない人非人だと糾弾も出来ようが、この人たちはきっとそうではないのだ、人が死んだら仏壇が必要、だから仏壇の値段を調べさせただけなのだ。アケミが「奥さんに食べさせてあげて」と持ってきたメロンを母に食べさせたのもそう。メロンを貰ったからあげた、それだけなのだ。
「なぁ、おかあの入院費と葬式、100万で足りると思うか?」
100万......アケミが融通してくれたお金のことか。
「まだ返してなかったの。そんなにかかるわけないでしょ。医療費だってね、高額療養費......っていうのがあって数万円で済むはずだから」
「おい、そんな馬鹿な話があるわけないだろ、数万ぽっち?そんなうまい話あるわけないだろよ。お前、かついでるんじゃないだろうな。それともお父さんがあの子に金を借りたことが面白くなくてデタラメ言ってるんじゃないのか?」
......てんで話にならない。
母の死まであと5日。