苦を滅尽せよ。私が『仏教』を学んで理解したこと。
一昨日は深夜まで、仏教の構造を理解するために本を読み込んでしまって、眠気と頭を使いすぎとでクラクラになりながら気絶をするようの眠りました。
一方、昨日はコンテンポラリーダンスのワークショップに参加してきて、フィジカルに意識を向け、全身表現をしてきたこともあって、頭も身体も全力で使って、満身創痍といいますか、満たされていたといいますか、こちらも気絶するように眠りに落ちました。
対象的な2日間を送ったのですが、その双方の体験があったことで、概念的なことの理解が深まったような気がします。
仏教は座学だけではなく、身体的な気づきを得ていくことを目指した教えです。自分なりに仏教を解釈して、理論立てをしたものをアウトプットした現段階の解釈をまとめてみます。
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先日から参考文献として紹介しているように、基本的にはこの書籍から知見を得ています。
なぜこちらの書籍をこんなにも信頼しているのかというと、それは自己啓発としての仏教を語っていないから。
著者の魚川祐司さんは研究者として、客観的に理論的に仏教の構造を把握した上で、解説をしてくるているので、『これをやったら幸せになりますよ』などといった、自己啓発的なメッセージが一切含まれていないということが理由としてあります。
偏ったものの見方ではなく、ニュートラルに仏教を解説しているので、とても読みやすく、参考になります。
▪︎仏教をわかりやすく解説するために...
仏教の概要をざっと認知してみたところ、何から説明しようかと悩みました。
一昨日、夜中まで本を読み直し、解読していたもの『どこから何を説明しようか?』というところに迷ったからです。表面的な解説をするのはとても簡単なんですね。
仏教の目指すところは涅槃や悟りであって、それは苦というものがない状態、つまり煩悩がなくなった状態で、そのためには瞑想をするといいんだよ、みたいな。
この解説だって、不十分な内容ではありつつも、『仏教とは?』という問いへの答えになっています。
ただ、現在の我々からして『欲望や執着を無くそう』『そうしたら苦しみがなくなります』と言われたところで...『いやぁ、そんなこと言われても、お金がたくさんあって、美味しいものいっぱい食べたり、好きな服を着たり、旅行に行ったりするのだってハッピーじゃん』という思考が必ずよぎると思うのですね。
こういう疑問に対して、『移り変わるもの(無常)には実態がないから(無我)、そこへの執着(苦)を捨てましょう』と言われても、議論は平行線で納得感が得られないと思うのです。というか、私個人が納得しきれなかったと言ったほうが正しいかもしれません。
上記した仏教の解説も間違いではないのですが、では、一体仏教では本当のところ『何を伝えたかったのか?』、こんな大それたことを語れるほど理解を深められてはいないとは思いますが、現時点で自分自身が納得感を得られた解釈を残しておこうと思います。
▪︎仏教の最終目的地『涅槃』とはなにか?
まずはじめに、仏教の究極的なゴールの涅槃についての定義を紹介します。
ということになるのですが、このままだとなんのこっちゃだと思うので解説します。
つまり涅槃とは、これらの心の状態がまったく消え去っている状況のことをいいます。
これらの貪欲、瞋恚、愚痴は『三毒』と言われ、煩悩の根本的なものとされています。ゆえに『涅槃とは煩悩が消え去っている状態』と言えるわけですね。
▪︎不満足には終わりがない
では、「なぜそんなにも煩悩を消し去りたいのか?」それは『不満足には終わりがないから』です。
不満足という言葉を使いましたが、これは仏教用語であるところの『苦』という考え方のことを言います。苦というのは文字通りの『苦しい』という意味だけではなく、もっと広い意味で『満足できない状態』のことを指します。
思ったように物事が進まないことだったり、手に入れたいものが手に入らなかったり、大切なものを失ってしまったり、そのような現象が起こるときに生まれる心の反応のことを苦と呼んだのですね。欠乏感と言い換えてもいいかもしれません。
▪︎なぜ、苦が生まれるのか?
この苦というものには終わりがないということを理解するためには、この苦が生まれる仕組みを理解しなければなりません。
これを理解するには仏教思想の中心的な考え方である『縁起』『無常』『無我』という概念を知る必要があります。
少しわかりやすくするために自分なりの解釈を含んでいますが、大きく間違いはないでしょう。
仏教の祖であるゴーダマ・ブッダは、苦の原因を無常であるものを永遠であるかのように勘違いをしたり、無我であるものをコントロールできるものと誤認識していることであると理解しました。
その勘違いや誤認から生まれる、執着や渇愛に絡め取られている状態を苦と表現したのですね。
▪︎苦から始まる負の連鎖
そして、ブッダは苦も縁起の中にあり、無常であり無我であると説きました。
つまり、私たちが日常の中で感じてしまう、執着や怒りや悲しみなどの現象は、原因から生まれた結果であり、それは移り変わり消えていくものであり、そして実態のないものだと言ったのです。
実態がないということは、起こった出来事を問題とし、解決しようとしてもそれは手触り感のないもの、手応えのないものとなります。「火のないところに煙は立たない」ではないですが、煙をどんだけ払っても、問題を生み出す根本原因を消さなければ意味がないでしょう。
そしてさらに、ブッダは私たちがいま現在感じている苦というものは、それが新たな縁起の始発点となって、新たな苦という結果を生み出してしまうという、その『終わりのない負の連鎖』に気づいたのですね。
ブッダはこの『終わりのない負の連鎖』を断ち切るための方法を実験し、体得したのですが、その方法の主なものとして『八正道』が示されています。
これらを実践しなさいとブッダは言っているのですが、これは『終わりがない負の連鎖』を断ち切るためであり、正しい考え方、あり方を身につけることで、苦の始点をつくらないために努めなさいということだと、私は解釈しています。
つまり、煩悩が起点となった行動や考え方は新たな苦を生み出す原因になってしまうのだから、いまこの瞬間からその原因を生み出さない生き方を目指しなさい、ということですね。
▪︎苦は命を超えて繰り返される
苦というものが縁起の中にあり、原因と結果によって生み出されているのであれば、それではその根本的な原因はどこにあるのでしょうか?
原因の原因の原因の....と、たどっていった先には、なにがあるのでしょうか?ここで『輪廻転生』の考え方がでてきます。
輪廻の考え方はとても簡単で、ほぼほぼ縁起と同義語です。
このように表現できます。
そして、この輪廻という現象は『一つの生』に留まることなく、死してもなお繰り返されていくという考え方が輪廻転生の意味となります。
つまり、現在私たちが感じている物事や行っている出来事が起因となって、命を超えて新しい世界が生成され続けているということですね。
そしてそれは、苦に絡め取られている生き方をしている以上、延々と続く『終わりのない負の連鎖』を生きることになるので、ゴーダマ・ブッダは『生きることも、死ぬことも苦だ』と語ったのです。
▪︎私たちは無意識に苦に絡め取られている
ブッダは自分自身も含めて、世の中の人々が「なぜこんなに苦しんでいるのか?」という問いを持ちました。現代の私たちも、たくさんの苦しみの中にあります。
近年は新型ウイルスの感染拡大に悩まされ、経済は悪化し、円安だなんだと不安を煽られ、さらに海を挟んだ隣国が他国に対して侵略戦争をふっかけ、「人間はいつまで争い続けるのか?」と憤りを感じた方も多いのではないでしょうか。
「人間はなんて愚かなのだろう」このようにブッダが思ったのかどうかは定かではないですが、王子という最高の位を捨ててまで、成し得たかったものがあると考えると、似たような感情を感じていたがゆえに出家したという可能性もあるかもしれません。
そのくらい私たちは生まれながらに、無意識のうちに苦に絡め取られて、愚かな生き方を選択させられてしまうという、この悲しき性のようなものをブッダは感じだからこそ、苦というものに向き合い、その原因を突き止め、その方法を開発したのではなのでしょうか。
▪︎苦を取り払う、2つのアプローチ
苦を取り払うには2つのアプローチがあります。
この2つのアプローチです。
ひとつめは、いまこの瞬間に起こっている執着や怒りなどの感情は、縁起の仕組みによって過去からやってきたものであるから、それらに反応をしないことを目指すアプローチです。
そして、それらは無常なもの(移り変わり消えていくもの)なので、湧き上がってくる煩悩に振り回されるのではなく、まずは気付きましょうよ、と言ったのです。
たとえば、怒りの感情に身を任せて目の前の相手を罵倒したり、嫌がらせのようなことをやったとします。その行為は、それ自体が因果の起因となって、さらに大きな苦しみの感情として巡り巡ってくることになるということです。なので、まずはその状態に気づくこと。
煩悩に振り回されて行動していても、なにも変わらないどころか、より問題が大きくなる可能性もあるわけだから、いまこの瞬間から気づくことでその行動を止めていきましょう、ということですね。
ふたつめは、そもそも苦が生まれる原因としては無常なもの(移り変わり消えていくもの)に固執してしまうことや、無我(実態のないもの)をコントロールできると勘違いしてしまうことにあるので、それらのものの見方を変化させなければ、根本的な苦から逃れることはできませんよ、ということです。
ひとつめの『気づきの実践』で『負の連鎖』を断ち切ることは可能ですが、誤ったものの見方をしていると、いまこの瞬間からまた苦の原因が生み出され続けてしまいます。
それゆえに、『この世界は無常であり、あらゆるものは無我である』というこの世界のことわりや真理を正しく理解することが、仏教の根本であり、その実践なくしては涅槃を達成することはできないということなのです。
そして、これらを達成するためには思考を使って論理的に理解するだけではなく、ヴィパッサナー瞑想を使って、体感的に世界の真理を理解することを目指すということとなり、現代におけるテーラワーダ仏教でもヴィパッサナー瞑想を修行の根幹とし、それに熱心に取り組んでいるというわけです。
▪︎真理に気づくためには段階がある
最終的に仏教の言っていることは『真理に気づきましょう』と言っているのですが、執着や怒りなどの煩悩まみれな状態でありながら、真理に気づくことはまず不可能だと考えます。煩悩や誤ったものの見方というのは、私たちの観る世界を変化させるサングラスやフィルターのようなものだと喩えられます。
『怒り』というフィルターで世界を観ていたら、冷静に正しく世界を観ることはできないし、そんなときに「世界は無常であり、無我である」なんてことを言われても、「は?なに言ってんの?」となってしまいます。
なので、まずはその煩悩自体に気づき、苦があるということに気づき、その苦というものがどこから来るものなのかを観察することからはじめましょうと言っているのです。
ゴーダマ・ブッダ以降の仏陀(他者を悟りに導くもの)の中には、すべての人間を対象にして教えを導くというビジョンを掲げた方もいらっしゃいますが、ゴーダマ・ブッダ自身は『世の中には話してわかる人もいるだろうから、その人たちに向けて教えることにしよう』と考えています。
つまり人々の中には煩悩にまみれ過ぎている人もいるから、その人たちに教えを説いても、悟りまで導くことは難しいだろうと考えたのですね。
▪︎仏教はアップデートされていく
そして、これは余談ですが後世に渡って、大乗仏教というゴーダマ・ブッダの考え方を土台とした、派生的な仏教が登場していくことになるのですが、多数ある大乗仏教に含まれる宗派は、あらゆる方法を使って、仏教を多くの人に届けるための手法を考えていったというわけです。
それが、密教では真言や曼荼羅であって、浄土宗であれば南無阿弥陀仏と唱えることであり、法相宗から般若心経が広がり、禅宗では坐禅を組むことで悟りへの到達を目指したということです。
こう考えると現代の社会において、より多くの人々を悟りに導くために新しい手法が考え出されてもおかしくありません。それは心理学や科学とのミックスかもしれないし、芸術やスピリチュアル的なものとのミックスかもしれません。
ゴーダマ・ブッダがそう願ったように、仏教とは自由な解釈が許されており、涅槃という最高到達地点にたどり着くことを目指してさえいれば、そのルートは如何なるものでもいいという性質を持っています。
私自身もこうやって仏教を学ぶ中で、どのように解釈をして、どのように実践していくことが最も有効的なのか、模索していこうと思います。
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さて、一気に解説をしたこともあって、説明不足な点もあったかもしれませんが、以上が原始的な仏教の大まかな解説となります。個人的な解釈が含まれている部分もあると思うので、これが完璧な仏教の解説ではないし、まだまだ説明ができていない概念や考え方もあります。
ただ、今回お伝えした内容は仏教を語る上で、大きく間違っていることはないだろうし、仏教をなんとなくしか知らない人にけての解説としては充分な内容なんじゃないかなと、手前味噌ながら思っています。
ここまではあくまでも座学の範疇を逸脱しません。ここからが仏教の道のりであって、実践しながら体感的に落とし込んでいくことが仏教の醍醐味であるので、地道に実践をしていきながら、報告できることがあれば随時記録に残していこうと思います。
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