100万円の授業 ♯13杯目
東京で過ごした高一の夏休みが終わり、僕はイソップ絵画教室に帰ってきた。
頭上から降り注ぐ昼の日差しの下、立て付けの悪い教室の扉を開けた。暗い蛍光灯に目が慣れるまで少し時間がかかった。皆がそれぞれのペースで描いている競争のない空間に僕はホッとする。と同時に心の中にはザワザワとした不安があった。
いつものように車のエンジンの音が少し遅れて聞こえてくる。僕は先生を見るやいなやすぐに講評会をしたいと提案した。先生は目を丸くしたままパチリパチリと瞬きをした。
「おもしろいね。やってみようか」
僕の案はあっさりと受け入れられた。
まだ皆が描いている途中のモチーフに触れないように、人数分のイーゼルを一列に並べる。東京の講習会と違って、上下の段ができるほどの枚数はそろわない。本当は順位もつけたかったが、そこまでするのはやめておいた。
「たまにはこうやってみんなのデッサンを見るのもいいね」
先生は嬉しそうに言った。
「東京ではこれからどうするの?」
僕は夏休みに見てきた講師たちを思い出し、その仕草を真似た。仁王立ちになり、右手に持った棒の先で皆の絵をコツンコツンと小突く。誰ひとりいやな顔ひとつせず、期待の眼差しをこちらに向けている。それを横目に、二言、三言思いつくままに感想を述べてみたが、すぐに言うことがなくなってしまった。
「そんなに簡単な感じ? 東京は人数が多いからそうなっちゃうのかな。みんながもっといい絵を描くにはどうすればいいだろうね」
先生は少し悲しそうな顔をして言った。
「そんなことより、この教室の生ぬるい雰囲気じゃ東京の美大受験生とは戦えないと思います!」
僕はこの居心地の良すぎる空間をいますぐに壊すべきだという思いをぐっと押し殺した。
この日は早めに帰った。心の中のざわつきが抑えきれず、帰宅してすぐに机に向かい手紙を書きはじめた。
「前略、僕は先生にたくさん刺激を受けてきました。これまでの日々は何ものにも代えがたいと心から思っております。本当にありがとうございます。でも、僕は東京に行ってつくづく感じました。まだまだ生ぬるい、このままじゃダメだと。先生は、よくご自身の授業は月5千円の価値もないとおっしゃいます。それではいけないと思うのです。先生は僕たちに100万円の授業をする義務があると思うのです……」
封筒に切手を貼り、その日のうちに近所のポストに入れた。
数日たって教室に行った。先生は腰につけたポーチをポンポンと叩きながら言った。
「手紙ありがとう。宝物にするよ」
見慣れた優しい笑顔がどこか寂しそうに見えた。
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