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らっきょうの漬物が出て泣いていた 台風の日の臨海学校

小学5年生になると、隣町の青少年の家で臨海学校が執り行われる。午前はベッドメイキング・飯盒炊飯とカレー作り、午後は海で遊ぶ。夜はキャンプファイヤー。その日は宿泊し、次の日レクをして帰る。1泊2日の課外活動だ。

タイトルにある通り、台風が来ていた。正確にいうと、台風が直撃した翌日が臨海学校だった。
台風が直撃し終わった夕方頃に、父と私はドライブに出かけた。高台から海を見るためだ。

「いのる、見て。すごい時化やろう。明日も波が高いけんね。絶対海には入らんと思う。汽水域にあるプールで遊ぶことになるがやないろうか。あそこは綺麗に整備されちょるけん安心よ。けんど、もし海に行くって言い出したら、入られんぞ。まあ、こればあ時化ちょったらハナから無理よえ」


翌日、48人の児童と数名の教員はあろうことか海へ向かっていた。お父さんはプールになるって言いよったのに、海に行くがや。台風はもう大丈夫ながやろうか。けんど、約束したけん海には入らんと砂で遊ぼう。「いのるちゃんも泳ごうや」という友だちに「大丈夫!砂で遊ぶけん」と返しながら、白い海原を見つめていた。
しばらく遊んでいると、学年でも1、2を争うくらいやんちゃな男子がオレンジのブイの外で泳ぎ始めた。先生からブイの中で遊べって言われちょったのに。ほんまにわりことしやなあ。
それに続くように、何人ものクラスメイトが水平線に向かって泳いでいる。友だちの姿がだんだん小さくなっていく。

「おい!流されよるぞ!!!!!」と言ったのはどの先生だったのだろう?「キャーーーー」と叫んだのは?「突っ立っちょかんと助けに行け!!」「〇〇くんが流されよる!」「〇〇ちゃんがいっぱい潮飲んだって言いよる」「波が来て急に流された」「はよ誰か助けに行きなさい!!」「〇〇くん!!!!!」

若手の先生がブイの中にいる流された子どもをすくい上げて砂浜に運び、また海に入る。そういうことが何度も何度も続いた。私は咳き込む友だちのそばに寄った。寄ったけど何をしたらいいかはわからなくて、ただ咳が止まるまで待っていた。いちばん向こうに流された子を助けたのは、たまたまその場にいた鈴木亮平風のお兄さんだった。くじらみたいに上手に泳げる人だった。校長先生は砂浜からゲキを飛ばすけど、決して自分で海に入らなかった。


全員が無事とわかったあと、私たちはすぐそばの小川に移動して遊びの続きをした。ここはお父さんの言いよったプールかも、と思い私はその日初めて足を濡らした。どんなだったか覚えていない。先生らは海で泳げるって思うて海に行ったがやろうに、どうしてみんな流されたがやろう。それに川がすごく狭い。ここはほんまにプールながやろうか?これってどういうこと?(あとでわかったことだが、ここはプールではなく本当にただの小川だった……)

海(小川)からあがって青少年の家に戻り、夕食の時間になった。全然遊んでいないのに疲れた。ついぼうっとしてしまう。食堂の窓からはどんよりとした曇り空。なんかちょっと、帰りたいかも。
ご飯をよそう列に並んでいるとき、友だちが教えてくれた。
「〇〇くん、いちばん向こうに流されたやんか。あのとき、お母さんの顔が浮かんだがやって。流されよるとき『お母さん』って言うたがやって......」
もう!!!!!!!同級生が死を覚悟したことへのショックと、先生たちのこれまでの判断・行動と、ここから帰るのが明日の昼になるという事実にますます辛くなった。

みんながご飯をよそい、席に着く。
お肉は食べられるな。これは苦手だな。サラダのコーンは誰かに食べてもらおう。ご飯の量が多いから減らしてもらわないと。らっきょうの漬物は、誰か好きな人がいたらいいなあ。
当時の私は食が細く、食べるのも遅かった。さらに、集団で食事を摂ることも苦手だった(会食恐怖症というやつなのだろう)。いつもの給食では、量を自分好みに減らしたり、苦手なものはちょっとだけ食べてみよう!がんばるぞー!というスタイルが主流だったので、今回も箸をつける前に計画を立てる。

あいつほんまに誰やったがかな。

「おかずを減らしたり残したりせずに食べるように」と言い放った先生がいた。
食べられる量を食べる、ではなく出された量を食べる。それが臨海学校......。今更言われても......。わかりやすくパニックになってきた。怖い。食べられなくて怒られることは確定している。怖い。怖い。お肉食べられるかな?味噌汁飲めるかな?コーンは......?怖い。きっと最後まで残って食べるんだ。白ご飯もこんなに食べられるかな?......らっきょうの漬も......ぼろぼろぼろぼろぼろぼろぼろぼろと涙が止まらなくなった。

ひと口ふた口と何か食べてみたが、涙の味しかしなかった。ご飯が怖い。先生が怖い。臨海学校がきらい。帰りたい。お父さんとお母さんに会いたい。何かの拍子に私も死ぬがやないか?たとえば「無理やり食べられ死」とか。
私は先生に「体調が悪い」と申告し、食堂をあとにした。先生の部屋で熱を測る。幸運なことに微熱だった。帰れる!帰りたい!けど、微熱だから大丈夫と言われてしまい、私は狭い2段ベッドでペラペラの毛布にくるまって安静にすることになった。先生に「おうちに帰りたくなったがやろう笑」と笑われた。そりゃあアンタ、帰りたいに決まっちょるやいか!辛くて泣きながら横になっていた。キャンプファイヤーには行きたくなかったが、再度熱を測ると平熱に戻っていた。くそ。疲れているので全然楽しくない。キャンプファイヤーの火が燃え移って死ぬ可能性もあるということを先生たちは考えてくれてないだろうな、と思った。だって今日、海に入ったがやもん。

生きて帰れないと思った臨海学校だったが、次の日はのろのろと朝ごはんを食べ、スタンプラリーのアクティビティに参加した。帰ることだけ考えて頑張った。昼ごはんも一番最後まで残って食べた。友だちが先に食べ終わっていく恐怖はあったものの、先生に怒られはしなかった。のろまだと呆れられていただろうけれど。

帰宅して海での出来事を話すと、両親ともに驚きと怒りが混ざった反応だった。お父さんとお母さんが口を揃えて「いかん」と評する変な環境から帰ってこれたがや、と心の底から安心した。
「大人があれだけおって海に行くって言うたがか。それはいかんにゃあ......いのるは海には入らんかったか」
「入らんかったで。お父さんが言いよったけん」
「そうか。えらかったやいか」
父はそういって私を褒め、今回死人が出なかったことは奇跡だったと改めて教えてくれた。

臨海学校では、以下のことを学んだ
・波のある日は海に入らない
・先生は間違えることもある
・青少年の家ではらっきょうの漬物が出てくる

海に臨み、学びの多い2日間だった。
鈴木亮平をテレビで拝見するたび、私はあのときのお兄さんにありがとうと伝えている。

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