生きる意味(自己肯定感を考えてみる)
自分は何のために生きているのか
人間はどのような時にうれしいと感じたり
充実感を感じるのか、僕の人生はこの事をずーっと考えてきた人生だったと思う
最近の言葉で言えば「自己肯定感」を高める方法を考え続けている
小さなころから、運動や音楽、絵を描くことは学年の中でビリレベルで
極端な不器用さとこだわりの強さなどもあり、学生の頃は全くと言っていいほどうまく行かないことだらけだった
自分なんてダメだと思う事ばかりで
学校は苦痛だった。好きな教科はまだマシだったけど合間の休憩時間も
好き嫌いも多く給食も嫌だった
親からも周りの大人たちからも
「人の迷惑にならないように」ということを大切と言われていた。
全く色々なことができない人間であったけど
出来なくてもやろうとしていると、自分のことを後回ししてでも助けてくれる大人がいた。明らかに迷惑をかけているのに、
「気にするな!」とよく言われた
僕自身も働く年頃になると
「人の役に立つ」「必要とされる人になる」ということがいい事だと
妄信して、望まれるままに突き進んだ時期があった。
劣等感が強かったので、人より頑張っても追いつけないと
自分でできる範囲をはるかに超えて何かに取り組んで
ただ尽くすような働き方をして、自滅する時期もあった。
それは今でも少し残っている
50歳が近くなり、少しずつ自分でできる事やそうでない事の区別もついてきた
自分の能力の低さや限界値も認められるようになってきたところも
少しずつ増えてきたのかもしれない
眠れない早朝に散歩に行きながら
どのように生きるかを、自然や他の生き物から学ぶことも多いなぁと感じる
桜は毎年気温の変化や天気が変わりつつあっても大体同じ時期に咲く
似たような気温の秋にはなぜか咲かない
蝉も親を見て育った経験がなくても、夏の日の雨の後で土の中から這い出る
雨あがりの暑い日が5月にあっても10月にあっても
おそらく成虫にはならない
生まれる意味があり,DNAレベルで決まっているのかもと思う
人間は言葉をつかえる。そして共感できる力がある
もしかすると誰かの役に立つと思った時に自己肯定感が高まるように
思う。そんな風に設計された生き物なのかもしれない
きれいな考え方だけでなく、一方で感情で動く生き物であるので
うまく行った人をねたんだり、周りの人よりうまく行くことを望んでいる
ところもある。
誰かの困ったを応援したり、自分の困ったを応援されて
つながりができて、困ったことが、何とかなるかもと思える感覚
困っている人や応援する人が入れ替わる
誰かのピンチの時には誰かがヒーローになっている
日替わりヒーローがいて、何かに挑戦している人がいるコミュニティが
家や学校、職場、趣味友などの場である状態が
自己肯定感を持てる環境なのかもしれない
困った何かが解決しなくても、
自分のためにこれだけやってくれた。
考えてくれたということで
感謝や信頼、「好き」という好意も生まれている様にも思う
誰かのために何かをすることはもしかすると
僕のようなお節介な性格の人には
自己肯定感を産む行動なのかもと思っている
僕ができる事をできる範囲で全力でやってみる
僕が関わりたい、相手も関わりたいと思っている半径3mの人を大切にする
生きる意味が少しわかってきたのかもしれない
誰かを喜ばせ、誰かに喜ばせてもらう
これが自己肯定感の作り方なのかもしれない