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脳死のダブルスタンダード

脳死になっても、人工呼吸をしていると、しばらく心臓は動き続けます。だから、心臓を含む臓器移植が可能となるのです。
 そもそも、脳死という無理くりの概念が捻り出されたのは、臓器移植が可能になったからです。心臓移植では、生きている心臓を移植しなければなりません。死体から取った心臓を移植しても動かないからです。しかし、生きている心臓を取り出せば、ドナーは死ぬので殺人になる。ですから、心臓移植では、心臓は生きているが、ドナーは死んでいるという、自然ではあり得ない状況が必要だったのです。
 そこであみ出されたのが脳死です。脳死は人の死と定義され、死んでいるのだから心臓を取り出しても殺人にはならないというのが、法律上の解釈です。
 しかし、脳死の患者さんは、人工呼吸器をつけているとはいえ、胸は動いているし、身体も温かい。当然、心臓も動いている。あまつさえ、心臓を摘出するときには全身麻酔をかけるのです。死体に麻酔?ほんとうに死んでいるのかという疑問が湧くのは当然でしょう。

ここに脳死に関するダブルスタンダードが発生します。

久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)

 仮に、あなたが五歳の息子(または娘、孫等)をプールに連れて行ったとき、ちょっと目を離したに姿が見えなくなり、プールの底に沈んでいるのを発見されたとします。心肺停止だけれど、蘇生処置を施すと心拍が再開した。手押しバッグの補助呼吸から、病院で人工呼吸器がつけられ、集中治療室に収容される。しかし、意識はもどらず、六時間の間隔を空けた二回の判定で、脳死と診断される。
 そのとき、あなたは子どもの心臓を、臓器移植のために提供できるでしょうか。今朝まで元気に遊んでいた子どもが、夕方には臓器の提供を迫られるのです。これだけ医療が進んでいるのに、もう少し何とか治療を尽くしてもらえないか。せめて心臓が止まるまで、あきらめないで治療を続けてくれないか。そう思って、脳死を否定したくなるのが人情でしょう。

 さて、ここで反対の立場を考えてみてください。

 五歳の息子(娘、孫等)が、どうもこのごろ元気がない。病院で詳しい検査を受けると、拡張型心筋症と診断された。心臓移植以外、救う手立てはない。移植を受ければ天寿をまっとうできるけれど、移植ができなければ余命は半年。そう言われたとき、あなたは移植を求めずにいられるでしょうか。どこかで溺れた子どもがいて、脳死と判定されたと聞けば、心臓を提供してほしいと思いませんか。

 自分の子どもが、脳死になっても認めないけれど、心臓移植が必要になったら移植を望むというのは、ダブルスタンダードです。脳死になっても、心臓が止まるまで治療を求めるというのなら、移植が必要になっても、それを求めてはいけないし、移植が必要なときそれを求めるのなら、子どもが脳死になったときには心臓を提供しなければならない。それが成熟した判断というものでしょう。

 厳しい選択かもしれませんが、ダブルスタンダードは身勝手であり、自分さえよければいいと言っているのも同じです。

 このとき、冷静な判断を下すために役立つのが、正確な知識です。医療者の多くは、移植が必要になればそれを求める代わりに、脳死を受け入れる判断を下すでしょう。なぜなら、脳死が人の死であることは、理論上、経験上、実際上、十分に理解しているからです。
 死の実際を見るなら、こういうレアケースも視野に入れる必要があるし、危機管理的には、最悪のケースや決断が困難な状況も、考えておく必要があります。それがいざというときの心の準備になるのですから。

@現代ビジネス

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佐藤雀@雀組ホエールズ
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