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小説:見える人 8-完結
8.《monkey's paw》にて/ありのままを見ること
営業先を出ると僕はカフェへ入った。窓の外は人で溢れてる。それを眺めつつ、スマホを取りだした。
『八時にいつもの店で待ってる。話があるんだ』
送った瞬間、待ちかまえていたように返事がきた。
『あの話か?』
僕は肩をすくめた。悲しそうにも腹を立ててるようにもみえるクマのスタンプがついてたからだ。
『あの話だ』とだけ書き、僕は送り返した。
《monkey's paw》はいつも通り静かだった。小林はふっかりしたソファに座り、葉巻を咥えてる。
「待ったか?」
「ああ、えらく待った。短い小説なら読み終えるくらい待ったぜ」
にんまり笑い、小林は顎を突き出してきた。テーブルにはカットグラスが置いてある。一段高くなったところは通路になっていて、それと並行に設えてあるカウンターにはしこたま金を持ってそうな男が三人座っていた。棚は光り輝いてみえる。ボトルが反射して煌めいてるのだ。
「悪かったな。ちょっと最後のが押しちゃってさ」
「ん、大丈夫だよ。ところで前から気になってたんだけど、それどうしたんだ? そうとう年代物じゃねえか」
僕はネクタイを持ちあげた。オパールは四方から当たる光に色を変えている。何色とも言えない色だ。ありのままの、そして、そのとき限りの色をしている。
「ああ、これにも長い話があるんだ。これから話すよ」
僕は土曜にあったことを話した。そうなるとそれ以前のことも話さざるを得なかった。突然消える街灯、なぜか見つめてくる犬。もちろん鷺沢萌子と名乗る女に騙されたことも話した。それでカレーとハンバーグが食べられなくなったのだ、と。話してるあいだ僕たちはずっと前を向いていた。互いを見ることはなかった。
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「信じられるか?」
「いや、信じられるわけもない」
そこで僕たちは向きあった。意外なことに小林は真剣そうな表情をしている。
「ただ、そういうことがあったってんなら、その通りなんだろ。話としちゃ信じられる部分は微塵もないが、俺はお前を信用してる。なにしろ大親友だもんな」
「ありがとう」
「はっ! ありがたがられることはない。不満に思ってることもあるんだ。なんで俺に言わない? どうして教えてくれなかった?」
「お前に言ったらなにかしてくれたのか?」
「まさか。なにができるってんだ? 俺はカミラちゃんじゃないんだぜ」
バーテンダーが近づき、顔を向けてきた。僕たちはまた適当に頼んだ。
「悪かったよ。それについては謝る。でも、さすがに恥ずかしいだろ? 鍋や炊飯器まで盗まれたなんて言いたくなかったんだよ」
「いや、それに関しちゃできることがあったんだ。この前地元の友達が結婚したんだよ。そいでな、二次会のビンゴで炊飯器が当たった。まあ、どうして炊飯器なんだよとは思ったぜ。でも、とにかくそれが当たったんだ。ただ、俺はすこし前に新しいの買っちまったんだよ。前のが壊れたんだ」
「ってことは、」
「ああ、つまり一個余計にあるってことだ」
「それ、まだあるのか?」
「ん、あるよ。箱に入ったままでな」
「じゃあ、くれ。鍋で炊こうと思ったんだけど面倒なんだよ。炊きたてのご飯を食いたいって思ってたとこなんだ」
首を振りつつ小林は葉巻を燻らせた。周囲には青白いけむりが漂ってる。
「――で、カミラちゃんと結婚するってことか?」
「まあ、そうなるな。どうもそうなるようになってたみたいだ」
「はっ! 他人事みたいに言うなよ。これはお前にあったことだろ? それに、これからずっとつづいていくことでもある。違うか?」
「ま、そうだけどな」
身体ごと動かして僕たちは向きあった。小林はまだ真剣そうな顔つきをしている。
「恥ずかしがることはない。けっきょくお前はカミラちゃんのことが好きなんだろ? いつのまにか好きになってたんだ」
「そう思うか?」
「違うってのか?」
「いや、たぶんきっとそうなんだろう」
顔は急激にゆるみだした。と思う間もなく声をあげて笑った。カウンターの三人は訝しそうに振り返ってる。バーテンダーもちらと見た。それから、うつむいてグラスを磨きだした。
「じゃ、それでいいんじゃないか? きっかけがなんであれ、お前がいいと思ってるならそれで充分だろ? 俺が信じられるかなんてのはどうでもいいことだ。――なあ、お前にはいろんなことがあった。信じられないようないろんなことがだ。それで混乱してたんだよな? それをカミラちゃんが解してくれたってわけだ。そういうときに男と女ってのは結びついちゃうもんだ。そして、実際、お前とカミラちゃんはそうやって結びついたってことだろ」
頬は歪みまくってる。なんでそんなに笑えるかは理解しがたかった。どういう経緯があったにせよ、結婚の反応としては異常だ。ひとしきり笑ってから小林は目の端を押さえた。涙を流すほど笑っていたのだ。
「炊飯器は婚約祝いにやるよ。結婚祝いには、――そうだな、電子レンジを贈ってやる。最新式のヤツをな。新婚生活にばっちり合うのをあげるさ」
「ありがとう、助かるよ」
首を振りながら僕はそうとだけ言っておいた。
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駅に着いたのは十二時過ぎだった。
小雨が降り出したけど僕は傘を持ってなかった。風も吹き、雨粒はまっすぐ落ちてこない。右往左往してるように流され、スーツを濡らした。
酔いを醒まそうと僕はゆっくり歩いた。土曜にあったことを思い出しながらだ。
あの後、父親は急に機嫌を良くしたようだった。帰ると言ったのに(正直なところ本当に帰りたかった)、「寿司をとる」と言いだし、すぐさま電話をかけた。
母と娘はキッチンへ行き、それ以外の料理を大量に持ってきた。そのあいだ父親は「とっておきの酒」というのを厳ついキャビネットから取り出し、「飲んでくれ。絶対美味いから」と強要してきた。まあ、それは確かに美味かった。寿司も上等なものだったし、篠崎母娘の手料理もそうとうのものだった。
「あっ、あっ、あの、そ、それは、わ、私が、つ、つくったんです。い、いえ、は、母に、す、す、すこしだけ、て、手伝って、も、もらいましたけど。――ど、ど、どうですか? お、お口に、あ、あ、合いますか?」
顔を赤くしながら彼女はそう訊いてきた。こたえようとしてると父親がたたみかけるように口を挟んだ。
「そりゃ決まってるよ。カミラちゃんがつくったんだ、美味しいに決まってる。もし、口に合わないなんて言うようなら、」
「あなた、そんなふうに言うのやめて。佐々木さんはうちのお婿さんに、――いえ、私たちの息子になるんですからね」
微笑を浮かべて僕はやり過ごした。問題はこの夫婦(ソフィアの言い様では僕の両親にもなるわけだ)がなにも言わせてくれないことだった。その後もなにか言おうとするたびに二人の掛けあいがはじまるというパターンが繰り返された。僕は諦めた。言いたいことは言い尽くしていたので、まあ、不都合はなかった。
父親は早々に酔い潰れ、いびきをかきはじめた。頬を歪めつつ母親はこのように言った。
「ほんと、この人は成長しないわ。私と初めて会った頃と変わらない。臆病で、そのくせ自分を大きく見せようとして、まったく成長しない人だわ。でもね、今日の臆病さは娘がかわいいあまりに出てきたものなのよ。この人は本当にカミラを愛してるの。――佐々木さん、あなたはきっとこの人より成長できるわ。あなたは怖れを自分の力で克服しようとした。理解することで立ち向かおうとした。そうしていれば怖れなんて取るに足らないものになるわ。それにね、ありのままを見るようにしてれば怖れることもなくなるものよ。すべてはなるようになってるの。私たちはなるようにしかなれない存在なのよ。ありのままの世界をありのままに見て、選ぶべきものをつかみなさい。そうしていれば幸せになれるわ。このまま、ずっとそうやってカミラと幸せになってちょうだい」
僕もだいぶん酔っていたのでその言葉の半分も理解できていなかったかもしれない。疲労と酔いからくる眠気に襲われながら、ろれつの回らない声でこうとだけこたえた。
「はい、そうします。カミラさんと幸せになります」
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雨はやはりスーツを濡らした。
街灯が照らす中を歩き、僕は立ちどまった。――ああ、こいつだったな。これが突然消えたのだ。それがあったのも雨の降る夜のことだった。他にも消えた街灯はあったけど、こいつが消えてから僕と彼女の関係ははじまったのだ。
僕はしばらく顔をあげていた。それから、ちょっと念を送ってみようと目を細めた。それで消えでもしたら怖いかもしれない。そんなふうに思ったのだ。
いや、馬鹿げてる。ありのままを見るのだ。霊的な力にせよ、電磁波にせよ、僕たちの周囲には関知し得ない力が働いてる。そういった力がどう影響するかの説明はそれができる人間に任せるべきだ。僕はありのままを見て、そこから選び取るべきものをつかめばいい。それだけのことなのだ。
雨はスーツを濡らしつづけた。顔をあげていたものだから目にも入ってきた。肩をすくめ、僕はマンションへ向かった。
ただ、階段に足をかけたとき、ん? と思った。誰かに見られてる気がしたのだ。アスファルトは黒く濡れ、そこに明かりがぽつんぽつんと落ちている。――うん、問題ない。いつも通りの風景だ。きっと守られてるに違いない。二重三重に守られてる。
ふと思いつき、垂直に首をあげてみた。入り口の明かりも元に戻ってる。それを見てると笑えてきた。
そうだよな、と僕は思った。
もし、街灯の電球が切れたとしたって、いつかは付け替えられるに決まってる。何十万本もの街灯がすべて消え、あらゆる道々が暗闇に覆われても気にすることはない。どうせ、誰かがまた明かりをつけるのだ。
―― 完 ――