小説:見える人 6-1
6.説明のつかないこと/守ってくれるもの
次の日も篠崎カミラは待ちかまえていた。僕たちは「おはよう」、「おっ、おはよう、ごっ、ございます」と言いあい、足早に会社へ向かった。
「み、見ましたか? ひ、ひ、左肩」
「見ないわけにはいかないだろ。なんてったって自分の肩なんでね」
そう言いながら僕は首を曲げた。濃いブルーのワンピースは歩くたび生地を密着させている。きっと柔らかな素材なんだろう――そのように考え、あくまでも服に意識を向けた。そうしないと肉体に目がいってしまうのだ。
「で、ど、ど、どうでした?」
「え?」
立ちどまり、僕は首を引いた。聞き間違えをしたのだ。「で、どうですか?」と聞こえていた。
「いや、どうですかって言われても。――その、なんだ、」
汗ばんだ胸元を見つめ、僕はなんてこたえるか考えた。うん、意外にあるんだな。手頃な大きさだ。率直な感想としてはそうだけど、そんなこと言えない。というか、言うべきでない。
「あっ、あの、わ、私が、い、言ったのは、か、か、肩のことです。そ、その、ど、どうでしたかって、い、言ったのは、さ、佐々木さんの、か、肩のことです」
「ああ」
口を覆い、僕は歩きだした。彼女は微笑みながらついてくる。きっと自信を深めでもしたのだろう。
「どうもこうもないよ。昨日はテレビをつけっ放しにして寝た。髪を洗うときも目をあけてた。鏡は見ないようにしてね」
「じゃ、じゃあ、や、やっぱり、」
「ああ、べったりついてた。手形みたいなのがね。っていうか、そうなってるってわかってたんじゃないのか?」
「い、いえ、そ、そこまでは。で、でも、き、昨日、タ、タクシーを、ま、待ってる、あ、あいだ、つ、つ、強い、ね、念を、か、か、感じたんです。も、ものすごく、つ、強い、ね、念を」
ものすごく強い念ね。そう思った瞬間に肩をつかまれた。あまりにも時宜を得たタイミングだったので(といっていいかはわからないものの)、僕は「んあっ!」と叫んでしまった。
「なんなんだよ、『んあっ!』ってのは。朝から聞くのにはそぐわねえ声だな。まるで後ろから刺されたみてえだぞ」
「ん、いや、その、なんだ」
「なんだよ、歯切れもわりいな」
小林は眉をひそめてる。それから、くいっと首を曲げた。
「おはよう、カミラちゃん」
「あっ、あの、おっ、おはよう、ごっ、ございます」
「二人仲良くご出勤かい? いやぁ、うらやましい限りだね。それにこんな美人を連れてりゃ噂もたつわけだ。だけど、ほんとびっくりだよ。こう言っちゃ悪いが見違えるってのはこういうのを言うんだろうな」
「いっ、いえ、あ、あの、そ、そんな、」
僕はさっさと歩きだした。二人は後ろで話してる。
「カミラちゃん、俺はずっとコイツにラインしてたんだ。それなのに無視してんだよ。ひどくないか? この親友たる俺を無視するなんてな。昨日だって何件も送ったのに既読にもならないんだ。ほんとひどい奴だろ?」
「い、いえ、き、昨日に、か、か、関しましては、ふ、ふ、深い、わ、わけが、ごっ、ございまして、」
「深いわけ? ふうん。――ところで、カミラちゃん、俺のこと知ってる?」
「いっ、いえ、も、申し訳、ごっ、ございません。さ、佐々木さんと、な、仲がいい方だとは、ぞ、存じあげて、い、い、いるんですが、お、お、お名前までは」
「なるほど。仲がいいのは存じあげてくれてたんだな。でも、残念なことにちょっと認識が違うな。ただ仲がいいだけじゃない。さっきもさりげなくアピールしといたんだが俺はコイツの親友なんだよ。大親友だ」
「そ、そ、そうでしたか」
「な? そうだよな? 俺たちは大親友だろ? それだってのにお前はよ。――っていうか、どうでもいいけど歩くのむちゃくちゃ速くねえか? こりゃ、競歩の練習とかじゃないよな?」
「いいから名乗れよ」
「は?」
「お前はまだ名前を言ってない」
「ああ、そうだっけ?」
立ちどまり、小林はポケットから名刺入れを取り出した。彼女も慌ててバッグを開けている。
「いや、申し訳ございません。私、営業の小林と申します。以後、お見知りおきいただけると幸いです」
「あっ、あの、わ、私は、そ、そ、総務の、し、し、篠崎カミラと、も、申します」
働く会社を目の前にどうして名刺交換なんてするんだよ。僕はそう思っていた。他の者も同じように眺めてる。
「いやぁ、あの子、面白いな」
エレベーターを降りると小林は肩を小突いてきた。
「からかうにはだろ?」
「まあ、そうだけど面白いことに変わりない。それに、えらく美人さんになったじゃねえか。厚化粧して背筋伸ばしてるだけって言ってたけど、なかなかのもんだぞ。着てるのだってお前がいかにも好きそうなもんだしな」
トイレに行き、僕たちは用を足した。「大親友」と名乗るだけあってどんな服を好むかも知ってるわけだ。とはいえ、指摘されたタイプが全面的に正しいわけではないけれど。
「ああやってだんだんお前好みになってくんだな」
腰を振り、小林はチャックを閉めた。僕は手を洗ってるところだった。なるべく鏡を見ないようにしながらだ。
「な、マジでヤッちまったんじゃねえだろうな? あの変わり様はちょっと異常だぜ。大きなきっかけがなかったらああはならないはずだ」
きっかけ? 僕は眉をひそめた。あまり聞きたくない言葉だ。
「何度も言ってるけど俺はヤッてない」
「ほんとか? ありゃ、――そうだな、三十手前まで処女だったのが突然男の味を知ったってくらいの変わり様だ。どうにもこうにも好きでいてもらいたくって、なり振り構わず昔の自分を捨てたって感じだぜ」
僕は肩をすくめた。思いついたことを言ってるようにしかみえないけど、一部分は当たってる。あの女は三十手前にして処女なのだから。
「なんなんだよ、その顔は。えらく深刻ぶった顔してんぞ。――で、さっき言ってた『深いわけ』ってのはなんだ?」
廊下の端へ向かい、僕たちは缶コーヒーを買った。小さな窓からは光が洩れている。
「教えろよ。どんな『深いわけ』があるってんだ?」
「なにもないよ。あの女がおおげさに言ってるだけだ。さっきしゃべっててわかったろ? 言葉づかいが変なんだよ。あれもそういうのの一部だ」
「ほんとか? マジでほんと?」
「マジでほんとだよ」
「マジで、マジにほんとか?」
「ああ、マジで、マジに本当だ。俺はヤッちゃいないし、『深いわけ』なんてのも存在しない。あの女が変わったのは雑誌で勉強したからだ。『ふんわりナチュラル系』のメイクにしたんだよ。自分でそう言ってた。服もそういうので見たんだろ。それだけのことだ」
「ふむ。じゃあ、そういうことでいいだろう。――ところでさ、」
僕はこれ見よがしに時計を見た。つられて小林も同じようにしてる。
「おっ、やべえ。こんな時間になってたのか。俺は資料持ったらすぐに出なきゃならないんだった。つづきは後で話そう。ああ、それとライン見ろよ。そいで、丁寧な返事を寄越せ。俺はずっと待ってたんだからな」
喚きながら小林は駆けていった。――まったく、どうしてあんなにしつこいんだ? どうせなんとかして合コンに誘おうとしてるんだろ? それが上手くいかないからしつこく絡んでるのだ。
ん? ということは、あいつは《悪の手先》みたいなものか? 悪い方へ導こうとしてるのだからそうも考えられるわけだ。
いや、馬鹿馬鹿しい。あんな間の抜けた《悪の手先》なんているわけがない。それにだいいち《悪の手先》ってなんだよ。そんなことを考えながら僕は仕事にとりかかった。