小説:見える人 7-1
7.大きな変化/見えるもの、見えないもの
その瞬間から僕は大きく変化した。起こってる現象からすると適当な表現でないけど『憑きものが落ちた』のだ。もちろん、それでも理解しがたいことに取り囲まれたままだった。しかし、少なからず見えたことがあったのだ。
いや、これも適当な表現でないのかもしれない。僕に理解できることは少ないのだ。無いに等しいくらい少ない。
ただ、ひとつだけはっきりしたことがある。「きっかけ」というのはセックスの隠語などではなく、僕たちの関係が発展するにせよ解消されるにせよ、その岐路に立ったことを示してるのだ。まあ、僕たちの関係と考えると引っかかる部分はある。しかし、分岐点に至ったのは確かだ。
「あっ、あっ、あの、」
「悪いね。呼び出しちゃって」
昼休みになると電話をかけ、僕たちは屋上で待ち合わせた。日陰には灰皿があり、煙草を喫ってる連中がこっちを眺めてる。だけど、そんなのも気にならなくなっていた。
「じゃ、朝の話をつづけよう。小林がいたからまったくできなかったもんな」
「は、はい。で、でも、あ、あ、あの方は、と、と、とても、い、いいお友達ですね。そ、そ、そう思います」
「そうか? まあ、そうなのかもな。それで、お母さんに会うって話なんだけどさ、そういう場合って幾らくらいかかるんだ?」
「え、ええと、い、い、幾らくらいって、そ、その、お、お、お金の、こ、ことですか?」
「もちろん。お母さんはそれが仕事なんだろ?」
穏やかな表情が浮かんだ。口は半月状になり、目許はゆるんでる。乱れた髪を直しながら彼女は首を引いた。
「さ、佐々木さんからは、き、き、きっと、い、いただかないと、お、思います」
「なんで?」
「な、なんでと、おっ、仰られると、そ、そ、その、こ、困りますが、た、たぶん、い、要らないと、い、言うはずです」
「でも、そういうわけにもいかないだろ? それに、こっちは用意しとかなきゃならないんだ。だいたいでいいから知っときたいんだよ」
瞳をあげ、彼女は固まってる。そのまま、こくりとうなずいた。
「そ、その、つ、つ、通常であれば、さ、三万円、く、くらいから、ご、ご相談の、な、内容によっては、じゅ、十万円、く、くらいでしょうか。た、ただ、と、とくに、き、決めては、な、ないようです。あ、相手の方を、み、見て、き、決めてるようですから」
「なるほど」
そう言いつつ僕はさっと計算してみた。三万ならいいけど、十万ってのはキツいな。電子レンジやらを買う身にとっては痛い出費だ。
「で、でも、と、と、とにかく、き、訊いてみます。ひ、ひ、日取りのことも、あ、あるので。そ、そ、その、は、母は、け、けっこう、い、忙しい人ですから」
日取りって。僕はそう思っていた。お見合いするわけじゃないんだから、とだ。
夜になって電話がかかってきた。つぎの土曜であれば大丈夫とのことだった。
「土曜か。別に問題ないけど、そこまで保つんだろうな? その前に最悪の事態ってことにはならないのか?」
「は、はい。た、たぶんですけど、だ、大丈夫だろうとの、こ、ことでした。あっ、あの、わ、私も、そ、そう思うんです。きょ、今日、お、お会い、す、するまでは、し、し、心配だったのですが、き、きっと、ま、まだ、だ、大丈夫に、お、思えます」
はあ、そうですか。っていうか、言い方を気にして欲しいな。「まだ大丈夫」って。
「で、金は? お母さんはなんて言ってた?」
「あっ、そ、そ、そのことですが、は、母に、き、訊いたら、わ、笑うだけで、こ、こたえて、く、くれませんでした。き、き、きっと、さ、佐々木さんからは、い、いただく、つ、つもりが、な、ないのでしょう」
僕はもう「なんで?」と訊くのをやめにした。――とりあえず十万用意しときゃいいか。カードは使えないだろうから下ろしとこう。
「で、どこに行けばいい?」
「あっ、はっ、はい。そ、それが、あっ、あの、じ、自宅で、お、お会いしたいと、い、言っておりました。わ、私の、い、家と、い、いうことです」
「君の家? いつもそこでやってるのか?」
「い、いえ、あ、あまり、というか、ほ、ほとんど、そ、そういうことは、な、ないのですが、で、でも、は、母が、そ、そう、い、言ってますので」
なんだか気詰まりだな。しかし、そういうことであれば手土産を持っていった方がよさそうだ。
「ま、いいや。で、家はどこにある?」
「しょ、しょ、松濤です」
「松濤? 渋谷の?」
「え、ええ。し、し、渋谷区、しょ、松濤です」
僕は顎の辺りを掻いた。こりゃ本格的な金持ちじゃないか。十万持っていくのが嫌になるな。
「わかった。何時に行けばいい?」
「は、はい。ごっ、午後からとの、こ、ことですので、い、い、一時に、」
天井を見あげながら僕はスケジューリングしてみた。渋谷へ行って、高級そうなものを買い、それから、――ああ、スーツで行った方がいいのかな? そう考えてると舌打ちしたくなってきた。これじゃ、ほんとにお見合いみたいじゃないか。
「そ、それでですね、う、家は、え、え、駅から、す、すこし、は、離れたところに、あ、あるので、お、お迎えに、あ、あ、あがります」
「ん? ああ、そうなの? そりゃ助かるな」
舌打ちしたいのをこらえ、僕は明るい声を出しておいた。
しかし、迎えにきていたのを見つけたときはわからないように舌打ちした。彼女より隣に立ってる人物が問題だった。腹のでっぷり突き出た初老の男――どう見ても父親だろう――が面白くもないといった表情を浮かべていたのだ。
「あっ、あの、ほ、ほ、本日は、よ、ようこそ、い、い、いらっしゃいました」
いや、まだ駅前だけど。そう思いながら僕は頭を下げた。彼女はノースリーブのワンピースにヒール靴を履き、メイクもしっかり施してる。長い髪をきれいに編み込んでいて美容室に行ったのがすぐわかった。
「それで、こちらは?」
「え? あっ、すっ、すっ、すみません。わ、忘れてました」
「忘れてた? ひどいよ、カミラちゃん。それはひどい」
「ご、ごめんね、パ、パパ。――あっ、あの、ち、父です。で、こ、こちらは、さ、佐々木さん」
僕はふたたび頭を下げた。どうして父親を紹介されてるのかも謎だけど、これだってしょうがない。
「初めまして。カミラさんと同じ会社の佐々木と申します。本日はお世話になります。それに、申し訳ございません。お父さんにまで出てきていただけるなんて」
「お父さん?」
父親は顔はしかめてる。――いや、そういうつもりじゃないんだよ。だって、他に呼びようがないじゃないか。
「ほ、ほら、パパ、く、車を、だ、出して。そ、そのために、き、来てもらったんだから」
車に乗りこんでも父親は面白くないといった顔をしてる。僕は無視することにした。
「ああ、そうだ。これ、つまらないものだけど、お世話になるから」
「そっ、そんな、き、気をつかう、こ、ことなんて、な、ないんですよ。――ほ、ほら、パ、パパ、さ、佐々木さんから、こ、これ、い、いただいたの」
「ああ、」
娘に向けた視線はでれっとしてる。目尻をこれ以上は落ちないラインまで下げていて、口もゆるみきっていた。
「気をつかわせて済まなかったね」
ただ、こっちを見ると眉をひそめた。――そういうのはもういいから。僕はあんたの奥さんに相談しに行くとこなの。いわば、お客ってことだ。金だって持ってきてる。それも十万も。
「で、佐々木くんの出身はどこ?」
「出身ですか? 埼玉ですけど」
「ご兄弟はいるの?」
「ええ、弟が一人」
「ということは長男? そうかぁ、長男なんだね」
それがなんだってんだよ。そう思いつつ僕は隣を見た。
「長男なんだってよ、カミラちゃん」
「そ、そうなんですね。し、知らなかったです」
彼女も首を曲げてきた。正面からだとさらに良くみえる。というか、こうなってみるとかなりの美形だ。
「う、うんっ!」
咳払いが聞こえてきた。額を覆いながら僕は無音の舌打ちを五回ほど繰り返した。そうしてるうちに車は高い塀に囲まれた家へ入っていった。いや、お屋敷といった方がいいかもしれない。横に長い洋館にはフランス窓があって、その前は色とりどりの花が咲く庭になっている。圧倒的だ。固定資産税だけでも気の遠くなる額を払ってるに違いない。
「つ、つ、着きました。――あっ、は、は、母が、で、出迎えて、く、くれてるようです」
「ん、ああ、」
僕は目を細めた。三メートルはあるかと思えるドアの前に母親は立っている。前に見たのと変わらぬぞろっとした服装で、長いネックレスをじゃらじゃら下げていた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
口角をあげ、母親は笑顔に似た表情をつくった。ただ、それ以外の部分は固まったように動かない。頭を下げ、僕は「お世話になります」と言った。
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