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10年前に憧れてた32歳の自分がショボクソ野郎

もう20日ほど前の話ですが、32歳。僕は32歳になりました。

誕生日エントリみたいな記事、あんまり書きたくはないのですが、それにしたって「ショボい」と思ったので、今日はそんなテーマで。ひっさびさのnote投稿にふさわしい内容かもしれない。

32歳の10年前、僕は大学4年生でした。大学院に行くことにした僕は依然としてフラフラしてたけど、少なくとも「デキるビジネスマンへの憧れ」が人生絶頂に達するほどには、いろんな勘違いをしていた頃で、その頃に僕に「10年後、あなたは何をしてますか?」と質問すれば「世界を変えるよな事業をしています」と、イタい返事をすることでしょう。

「夢は大きく語れ」と、前日読んだビジネス書に書いてあったんでしょうね。あるいは、授業サボって見ていたTEDトークを見て感化されたのかな?

とにかくにも、10年前の僕にとって32歳はキラキラしてた。

という具合に書くと、「◯◯歳って昔はもっと大人だと思ってたけど実際に◯◯歳になってみると全然未熟者です」という、なんだかお決まりの誕生日エントリー記事のテンプレートをなぞっているようで、段々笑えてきたのですが、ちょっと違うんです。違うの。

否定すればするほど、イタい気がするけど、そういうのじゃなくって。

そのテンプレートに従えば、「10年前の僕にとって32歳はキラキラしてた。でも実際に32歳になってみると、全然キラキラしてない」という流れがお約束ですけれども。違います。

「10年前の僕にとって32歳はキラキラしてた。実際に32歳になってキラキラした憧れの大人にだいぶ近づいてるけど、そもそも憧れてた自分像そのものが『ショボい』じゃねーか」

という話。


もちろん僕は社会人としてまだまだ未熟者であるのは勿論そう。ただそういうおべんちゃらを無視して言えば、わりといろんなスキルは身につけて来たと思います。人事やバックオフィスがキャリアとしては多くはありますが、エンジニアやデザイナー、保育士や社労士とか、専門性に特化したスペシャリストたちとの専門分野の会話しながら、そういう人たちと組んで実態としての実務を推進する。ただプロマネっていうほどキレイな領域ではなく、もっとぐちゃぐちゃな状況を、ヨイショ!と「なんとかする」みたいな、野武士チックなディレクション能力は、割と高まってきたと思っています。

急に全く知らない業界、知らない組織に放り込まれても、そこでポジションを見つけて眼の前の課題を「なんとかする」ことはできるだろうな、という根拠のない自信がある。

僕にとって「憧れたキラキラ」って、そういう野武士チックなサバイバル力だったので、その土俵には少なからず上がっているとは思っているのです。

と、やけに自慢げに自分の得意を語っておりますが、僕はこの「なんとかする力」「野武士チックなサバイバル力」とかそういうのを『ショボい』と、全否定してかかっているわけです。自分の強みを一刀両断という、自己否定の一番しんどいやつですね。でも、そう思うのです。

だって、そういうの、ショボくないすか?


2つの点で、「で?」って思うわけです。

「で? あなたはそれで誰を幸せにしたの?」
「で? あなたはそれでどんな豊かさを手に入れたの?」

そうささやくのよ。私のゴーストが。

この記事、1年半ほど前に書いたのですが、まさにここで言っていることが近いです。というか、全部これ。書くの面倒なのでこっちの記事を読んでほしいくらい(笑)。

これが1つ目の「で?」です。
上の記事を一言でサマリすると「「肯定性の過剰」によって、現代を生きる人々は疲労している」です。

「あなたはなんでもできる」という論調は、「あなたがやらないのはあなたのせいだ」という自己責任論につながり、これが根ざしてるのがつまるところ「能力主義社会」という話になってくる。この社会を「メリトクラシー」と呼ぶわけです。

「あなたはなんでもできる!」と言われ続けるからしんどいっす。ってことですね。

僕がやってきたことって、要するに、今の社会において評価されやすいモノサシを見つけて、そのモノサシを基準に評価されやすいようスキルを磨いてきただけなんですよね。

がんばれー!っていう肯定性の過剰を自らの精神に押し付けて、壊れずに済んでいるから、今なんとか生きている、っていう具合。

「線形的」って表現で伝わりますか?

出典:デルタ先生の物理と数学の部屋

線形的に、ひとつのモノサシに沿って、足し算チックに成長してる感じ。それが今の僕です。レバレッジは効かないし、探求する余白がない。無為の時間がない。

一方で非線形的に進んでいると、一時的に、ぜんっぜん成長しない時間とかがあるわけです。でも最終的に最後でぐーって伸びたりする。あるいはまた沈んだりして、でもまた伸びたりする。非線形的です。

「で? あなたはそれで誰を幸せにしたの?」
「で? あなたはそれでどんな豊かさを手に入れたの?」

そう聞かれたときに、線形的な人生を歩んでいる人は「うっ」と言葉に窮します。非線形的な人生を歩んでいる人は、そんな質問なんぞ気にしません。あるいはアホみたいにじっくり考えます。あるいは無視します。そんな具合。無為。


そして、2つ目の「で?」について。

これが一番大事だと思いながら、大事であるがゆえに答えが至極シンプルで、説明が一瞬で終わります。

それは「熱さ」です。

最近いろーんな人と会って、いろーんな人とお仕事するようになって感じるのですが、「優秀さ」と「熱さ」って、結果どっちも付いてくる的なものかと思ったら、案外そうでもないみたいなんです。

要するに「めっちゃ優秀なんだけど、全然熱さがない人」「めっちゃ熱いんだけど、その仕事の能力が低い人」という2パターンが、実際いるんですね。

もうおわかりと思いますが、僕が「ショボい」と自己否定に走るのは、この前者。「優秀なんだけど、全然熱さがない人」になってないかい?という自戒です。(優秀って自画自賛してる恥ずかしさはここではお許しを)

僕が上述した「野武士チックなサバイバル力」。これもそう。

サバイバル力、とか言ってる時点でうっすいわけです。今の社会を「生き残る」だけで満足しちゃってるわけです。今の社会を変えていくぞー!という気概が、そこには圧倒的に欠如しています。

正直、生き抜くだけで手一杯、って人もいると思います。だから別に「今の世界を変えていくぞ」と全員が思うべきだなんて、ちっとも思いません。ただ、少なからずとも僕は、わりと自然に世の中をサバイブできちゃう程度には「恵まれている」人間です。

そんな恵まれたラッキーボーイが、何を生き残るだけで満足しとるんじゃ!と喝を入れたい。

本来は、社会をよりよく変革していくための「能力研鑽」だったはずが、「能力研鑽』ばかりが進んで、ちっとも社会の変革には至っていない。そのもどかしさ、恥ずかしさ。そういうのを包含して、『ショボい』と、そう思うわけです。

そのために「熱さ」『エネルギー」「熱狂」みたいなものがとてもとても大事。エネルギーはないけど優秀です、みたいな人には全くなりたいと思えません。つまんないもんね。


「10年前の僕にとって32歳はキラキラしてた。実際に32歳になってキラキラした憧れの大人にだいぶ近づいてるけど、そもそも憧れてた自分像そのものが『ショボい』じゃねーか」

ほんと、そう思います。クソです。

32歳、始まってまだ20日間です。この1年はそんなクソな自分を超えていきたいと思います。

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イッチー/伊地知 悟
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