そうまでして守りたい“自分”とはなんなのか。
意味を求めてしまう。否、無意味を忘れてしまう。
人に会うと、つい、何か意味のある人間でいようとしてしまう。
“取り繕う”と言うのかもしれない。隙間を埋めるような会話だとか、「何もない時間があってもいい」ことを忘れてしまうことだとか、どうにかして記憶に残りたいと潜在的に思ってしまうことだとか、選ぶ言葉だとか、声色だとか。
僕はそれを「武装」と呼んでいて、例えば髪の色を地毛と変えておくことなんかが、僕の中でのわかりやすい武装だ。
その他、話す言葉の選び方も、服装も、(ほとんどないけど)知識も、つまり後天的に“どうにかなりたい”とか“どう思われたい”とか考えてやること全てが“武装”だ。
生きていく逞しさをどうにかして補いたい。
鎧をつけて、面を被って、レガースをつけて、いくつかの“盾”と“矛”を持ち、行けども行けども“戦”などどこにもない。
「備えあれば憂いなし」と言う。備えた物は、使う機会がないほうがきっとしあわせだけれど、万一に備えて一応持っておく。
けれど最近、手荷物の多さや身体の重たさに嫌気がさすことがある。
あれもこれも、いつも持ち歩いているけれど使わないし、役に立たない。第一、もし困ったことがあれば、ほとんどの物は出先で買い足せる(お金があればね)。
そう思うとバカらしい。一つずつ手荷物を減らしていく。
あれは要らない、これも使っていない。そんなものばっかりを常備している。
最終的には、裸になるんだろうけど、さすがに裸で外を歩くわけにはいかないから(人間だもの)、まぁそこは人の感覚に譲渡するとして。
実際に戦になれば武器として使い物にならないような見せかけの武器みたいな物を、ひとつずつ降ろしていきたいのだけれど、何も持たずに会える人が僕にはいない。きっとそんな人のことを、友達だとかなんだとか名前を付けて呼ぶのだろうね。
今の僕には、何かを持っていなくては不安になってしまうような人間関係しかない。
だからたまに会ったときに、声が上ずったり、空白を埋めるように話したりしてしまう。
無意味の持つ“意味”や“推測”、意地悪さや或いは優しさ、そうしたものを大事にしていきたいのに。