ある若いアーティストの作品に「乗り合わせた」ことで、気づかせてもらえたこと
今日ぼくは、とても印象に残るインスタレーション作品に「乗り合わせた」。
作者は、ことし大学に入ったばかりの若いアーティスト。
彼への感謝を込めて、きょう体験したこと、感じたことを、ここに綴る。
8年前の出会い
ぼくが「彼」に最初に会ったのは、今から8年前、彼が10歳のときに開催されたアートイベントだった。当時、彼の暮らす東近江市では「妖精の扉」を作って街中に置いていくアート活動が行われていた。その活動に参加した作品が一同に会する展覧会が、彼との出会いだった。
展覧会では、プロから子どもたちまで、さまざまな作品があった。その中に、ひときわ僕の目を引いた作品があった。流木やどんぐりや布切れなど、身近にある素材を緻密に使い、妖精の家を中心に、妖精の暮らしが表現されていたのだ。
作者のプロフィールを読んで彼が10歳と知り、さらに驚いた。まさか10歳の少年の作品とは思えない緻密さで、でも10際の少年だからこそ作り出せたと思われる想像力。あのときに彼の作品から受けた衝撃は、今も色褪せない。
その後、彼との接点はあまりなかったが、1年ほど前から関わりが増えてきた。彼の母親が仲間と取り組んでいる活動とぼくとの関わりが生じたこと、彼も母親の職場でバイトをするようになったことなどが重なり、彼と居合わせることが増えたためだ。
そんな折の、彼の個人展覧会だった。
作品での「乗り合わせ」
会場を訪ねたのは、4日間の会期の最終日。夕暮れ時、会場近くにある八日市図書館に車を停め、冷たい風に首をすぼめて5分ほど歩いた。ギャラリーは、古いビルの三階の小さな一室。踏み外したら落ちそうな階段を、一段ずつ踏みしめてのぼった。
窓もない白いドアに、今回の展覧会「REACH.」のロゴが貼られていた。
ドアを開けようとしたが、うまく開かない。でも中から彼の声がして、ドアを開けてくれた。
ぼくを見た彼は「わぁ」とうれしそうな声をあげてくれた。隣にいた彼の母親は「このタイミングで(ぼくが)来るか!?」と驚く。
会場は薄暗く、静かな音楽が響いていた。入って右手奥には、電車の車内を模した白黒の線画が壁一面を覆うように置かれ、その絵にプロジェクタの映像で乗客のイラストがカラーで映し出されている。しばらくすると一人がふっと消え、またしばらくすると、一人が(時には二人連れが)ふっと現れる。
「1970-1980年代のニューヨークの地下鉄の車内」を模したというその作品の手前には、絵から連続するように向かい合わせの「座席」が置かれていた。そしてそこには、小さな子を膝に抱いた男性と、女性が座っていた。ふたりとも、独身の頃から活動を共にした経験のある、よく知る夫婦だった。
「わぁ、こんなところで」と、互いに顔を見合わせる。あ、この感じ。たまたま載った電車で、知り合いに会った時と同じ、あれだ。
ぼくらは「乗り合わせた」。そう感じた。
ぼくは夫婦と向き合って座った。しばらく、彼と、彼の母親と、その夫婦と話をした。彼からは、この作品の制作過程の話を聴かせてもらえた。
彼の想いと、今回の展覧会で起きたこと
ほどなくして、彼の母親と、子連れの夫婦が帰っていき、入れ替わるように、ぼくよりも少し年下らしい男性が訪ねてきた。まるで駅で人が降り、乗ってくるかのように。
その男性は彼の以前からの知人らしく、互いに親しみを込めた言葉をかわした。こんどはその男性がぼくの向かい側に座った。
作者の彼は知人に向かい、「(展覧会を)やってほんとによかったぁー」と、しみじみと言った。
そして、僕にこんな話をしてくれた。不登校になった中学生のとき、部活にだけは通っていた。でも部活がない水曜日は、八日市まで自転車で来て(彼の家は合併前では隣町)、八日市図書館で本を借りて、雰囲気のいい喫茶店で本を読んだり、大人の人と話したりするのが習慣だったと。
なぜならそれらの場所は、ごちゃごちゃしていなくて、落ち着ける場所だったから。そして落ち着いた大人たちの振る舞いに接して、焦っていた気持ちを落ち着かせることができた、と。
見た目には大柄で、実はあれほどに繊細な作品をつくる彼が、当時、学校で何を感じていたのか、図書館で、喫茶店で、何を感じていたのか、少しだけ、理解できたような気がした。
さらに、彼は続けた。
今回の展覧会は、そうした場所でお世話になった人たちに来てもらい、自分が感じさせてもらったもの(落ち着いた感じ)を、逆に感じてもらえる場にしたかったのだと。
そうして、こんな話もしてくれた。
いま近所に、小学生で不登校の子がいる。ずっと気になってるその子が、お母さんと一緒に訪ねてくれて、「ここが落ち着く」って言ってくれた、ということ。
あのときの自分が大人に味わわせてもらえたことを、いま、自分の作った空間で彼女に味わってもらえたこと。そのことがほんとうにうれしい、と。
ぼくは、彼を抱きしめたくなった(行動には移さなかったが)。彼の知人も、温かい眼差しで、彼のことを見つめていた。
乗り合わせることの、偶然と、必然
もうしばらく居残りたかったが、時間のリミットが迫ったので「下車」して、帰途についた。
気温は下がっていただろうが、心はとても温かかった。八日市図書館の駐車場に戻ると、東の空には、ぽっかりと丸い満月がのぼってきていた。
帰り道、濃密だった30分ほどの「車内」での出来事を振り返りながら、ぼくは思った。
「乗り合わせる」ことの、偶然と、必然を。
8年前のぼくと彼との出会いも、彼の母親との出会いも、そして今日再開した夫婦それぞれとの出会いも、今日とは違う文脈の中で起きたことだった。
でもこうして彼らとまた居合わせたし、あの男性との新たな出会いもあった。
それは偶然のようだが、もしかしたら、必然なのかもれない。
出会っていなくても、同じ路線に乗っていることは結構あって、乗る時間や車両や駅が違うだけなのかもしれない。実は同じ月の浮かぶ景色を、少しの時間差で眺めていたりするのかもしれない、と。
彼は今後、この作品のポートフォリオをつくり、アーティストして次の一歩を進もうとしていると言う。
彼は、次の路へ進むだろう。
ぼくも、ぼくの路を行こう。
またどこかで、彼と「乗り合わせる」時がくるのを楽しみに。
<彼の展覧会の案内>
今回の彼の展覧会の案内は下記の投稿からご覧いただけます。
彼の想いのこもった挨拶文も。ぜひご一読を。
彼のSTORYで、今回の展覧会の様子も見られます。
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