立原道造:ヒアシンスハウス
立原道造(たちはら・みちぞう、1914年~1939年)…詩人、建築家。
画像は、埼玉県さいたま市の別所沼公園にあるヒアシンスハウス。立原道造の構想を継承、実現したもの。
立原道造を知ったのは、いつだったのか。中原中也(なかはら・ちゅうや、1907年~1937年)や、宮沢賢治(みやざわ・けんじ、1896年~1933年)の詩集などを読み始めて、その頃、何となく立原道造も知ったような気がする。
立原道造は、1938年に詩雑誌「四季」の第37号(昭和13年3月号)に掲載の「別離」と題された短い評論で、中原中也の「汚れつちまつた悲しみに……」について分析している。
また、1939年には第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なるもの)を受賞している。残念ながら、立原道造は結核のために同年の1939年3月に24歳で亡くなっているが。
あまりにも若く逝ってしまった立原道造を、三好達治(みよし・たつじ、1900年~1964年)は以下のように表現している。
1939年の「四季」第47号(昭和14年7月号)に掲載されたものである。この文章を初めて読んだ時には、かなり鮮烈な印象を感じた。的確過ぎると。流石、詩人の表現は違う。
結局のところ、立原道造については、中原中也、四季派、萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう、1886年~1942年)、室生犀星(むろう・さいせい、1889年~1962年)とかの流れで知ったのかも。
あっさりとした、透明感のある、清らかな味わい、といったものが、立原道造の詩からは伝わってくる。刺激的であったり、衝撃的であったり、深く心に突き刺さる感じではない。だが、その反面、繰り返し読んでしまう魅力がある。飽きが来ないといった方が適切か。
ちなみに、芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ、1892年~1927年)と同様に、東京府立第三中学校、第一高等学校、東京帝国大学を卒業している。ただ芥川は、第一高等学校で乙類英文科、東京帝国大学は英文科。立原は、第一高等学校で理科甲類、東京帝国大学では工学部建築学科である。
13歳の時に北原白秋(きたはら・はくしゅう、1885年~1942年)を訪問したり、短歌を発表したり、自選歌集をまとめたりしていたとか。天才過ぎるだろう。
文学だけではなく、そもそも第一高等学校理科甲類に進学したのは天文学を志していたとのこと。結局、建築学科に入るが、在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞。やっぱ、天才過ぎるだろう。
辰野賞とは、日本近代建築の父と呼ばれる辰野金吾(たつの・きんご、1854年~1919年)にちなんだ賞。
文学にも、建築にも才能があるのか。天才は、何でも出来るか。
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