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『55歳からのハローライフ』は、なぜ小説として書かれたか?
著者である村上龍氏は、2003年に『13歳のハローワーク』、そしてその9年後に『55歳からのハローライフ』を発表している。
それぞれ、表紙には以下のような英語表記がなされている。
$$
\begin{array}{|l|c|} \hline
&英語表記\\ \hline
『13歳〜』&\text{Job Guidance for the 13-year-olds and all triers}\\
&(和訳:13歳と挑戦する皆のための職業ガイダンス)\\ \hline
『55歳〜』&\text{Life Guidance for the 55-year-olds and all triers}\\
&(和訳:55歳と挑戦する皆のための人生ガイダンス)\\ \hline
\end{array}
$$
このようなタイトルと英語表記の類似性から、この二つの作品は対となる、どちらも実用的な「ガイダンス」として書かれたものと考えられる。
しかし、前者が網羅的なカタログの形をとっているのに対し、後者は小説である。
これは、なぜなのだろうか?
「人生」をガイダンスする小説
『13歳のハローワーク』では、カタログとして、さまざまな職業についての情報がまとめられている。
また『55歳からのハローライフ』においても、結婚相談所やシルバー人材センターの実情等、実用的な情報が詳細に書かれており、カタログやガイドブックとしてまとめることも不可能ではなかったのではと思われる。
しかし、実際には小説という形がとられた。
それは、それぞれの作品が「ガイダンス」する事柄の違いに拠ったのではないか。
つまり「職業」をガイダンスするにはカタログという形が有効であったのに対し、「人生」をガイダンスするには小説という形が有効である、との判断があったのではないだろうか。
人生でもっとも恐ろしいこと
では、本作の中で人生がどのように捉えられているかを見ていこう。
人が別人になってしまうことの恐ろしさについて語られる部分がある。
昔、人生でもっとも恐ろしいことは何だろうと、会社の社長や同僚達と酒の席で話したことがあった。(中略)最後に社長が、自分または最愛の人が死ぬのと、完全に別人になってしまうのとではどちらが怖いだろうかという疑問を投げた。
そのときは酔っ払っていたので笑いながらそういった話をしたのだが、完全に別人になるということがそのあとしばらく頭から離れなかった。(中略)それは死よりも恐ろしいのではないかと、因藤茂雄はそう思った。
人の死は、物理的な消滅だが、完全に別人になってもその人は生きなくてはいけない。
また「結婚相談所」という短編は、語り手である中米志津子の夫が別人のように変わってしまうところから始まる。
六十歳で定年退職した夫が、再就職に失敗し続けたあげく、点けっぱなしにしたテレビに向かって一日中文句と愚痴を言うようになった。
そしてその後、中米志津子自身も別人のようになったと語られる。
わたしたちは、別の人生がはじまると、別の人間になる。中米志津子はそう思った。夫と別れてから、自分は別の人間になった気がする。(中略)『ひまわり』があれほど切ないのは、年月と状況によって人間が変わってしまうことを、ミもフタもなく正確に描いているからだ。
この他、本作のすべての短編の中に、別人のように変わってしまった人物が登場する。
具体的にその幾つかを挙げると、「空を飛ぶ夢をもう一度」の中では、語り手の中学時代の友人であった福田が、不意にホームレスとなって姿を現す。
「ペットロス」では、高巻淑子の夫が、ポジティブな変化を見せる。
それは良い変化だったとはいえ、淑子が不安にとらわれ、動揺するほどのものだった。
また「トラベルヘルパー」では、教師であった堀切彩子の夫が、難病で寝たきりになり、その結果、彩子自身とその生活も大きく変わってしまったことが語られる。
年月と状況によって、人は、まるで別の人間になったかのように変わってしまうことがある。
すべての変化が、悪いものであるわけではない。
それでもそうした極端な変化が、人生に、時に壊滅的なほど大きな影響を及ぼすことが語られている。
極端な変化の追体験
本作品が「人生のガイダンス」であるならば、人生にそのような大きな影響を及ぼし得る変化について、できるだけ正確な理解を読者に提供することが重要だろう。
もしそれを『13歳のハローワーク』のようなカタログの形で行った場合、おそらく伝わるのは表面的な知識だけで、そうした変化が実際にどのように経験されるかを伝えることは非常に難しいのではないだろうか。
小説という形であればこそ、読者は、或る固有の人生と状況を抱えた登場人物の視点から物事を見ることができる。
そして、その人物や周囲の人の変化を追体験することで、その変化についてより深い洞察を得る機会を持つ。
著者が「人生のガイダンス」である本作を小説という形で書いたのは、人が別人のようになってしまう変化についてより深く伝えるために相応しいと判断したからではないだろうか。
どう生きたらいいのだろう
自分が、あるいは親しい人が、まるで別の人のように変わってしまうのは、とても怖い。
でも、どうしたらいいのだろう。
本作の中で、登場人物達の呼ばれ方、その名前の表記のされ方はさまざまである。
語り手自身は常にフルネームを漢字で表記されるが、それ以外の人物は漢字、カタカナ、時にはアルファベットによって名前が表される。
そんな中、重要人物であるにも関わらず固有名が使われない人がいる。
それが最初の短編に登場する「相談員さん」である。
もしかすると、この相談員は「人生のガイダンス」である本作の読者のための相談員でもあるのではないかと思えてくる。
相談所をはじめて訪れ、面接を受けたとき、大切なのはこの先どんな人生を生きようと思っているかだと、相談員さんに言われた。(中略)それとなく相談員さんに聞いた。
「自分の人生を自分で選べる人って、限られていますよね」
(中略)
「いや、実際のところ、自分で人生のすべてを選べる人なんかいないんですよ」
相談員さんはそう答えた。
(中略)
「ただ、自分はどんな人生を生きようとしているのかと考えている人と、まったく考えてない人だと、ずいぶん違うんじゃないでしょうか」
人生のすべてを選べるわけではないが、それでも自分がこの先どんな人生を生きようとしているのかを考えることが重要だ。
この作品の中で書かれている指針の一つである。
思えば、本作が良質のガイダンスであればこそ、多くの人が無理なく実践できる具体的なアドバイスも、同時に与えられていた。
まずは好きな飲み物を、ゆっくりと、落ち着いて飲むことだ。