この世界は幻想か ~ホログラフィック理論の検証~

 前回のコラムでは、味覚は一種の幻想と言えることを述べた。それでは、私達が住む世界全体も幻想なのであろうか。今回のコラムでは、私達が存在する、この世界がホログラムであるという学説、ホログラフィック理論について考察する。

ホログラフィック理論とは何か

 かつてギリシャの哲学者プラトンは、私達が目にしている世界を、薄暗い洞窟の壁に映る影であると言った。つまり、私達の手の届かないところに実体があり、私達がこの世界で見ているのは、その実体の影であると考えたということである。それから2000年が経過したが、このプラトンの洞窟の影の比喩は、科学的な真実である可能性があるという。
 ホログラフィック理論によると、私達が目で見ている世界は一種のホログラムである。ホログラムは光のトリックを使って二次元のフィルムに記録したものを、3次元像に映し出す。私たちが住む世界もホログラフィー技術と同じ原理であり、私達が住む三次元の空間は、はるか遠くの二次元の巨大な平面に記録された情報が映し出されたものと考えるのがホログラフィック理論である。この理論によると、私たちが三次元空間で見るものは、全て遠くの二次元の平面で起きる出来事の影であり、その二次元平面の情報と三次元空間で発生する出来事は完全に等価である。したがって、はるか遠くの巨大な平面に、量子場や物理法則が記述されていることになる。

ブラックホールの謎

 ホログラフィック理論はブラックホールの謎の研究過程で生まれた理論である。そこで、ブラックホールについて考察していくが、まず問題の理解のために、ブラックホールの性質について簡単に述べておく。

(1)ブラックホールの成り立ち
 ブラックホールは、重い恒星が生涯を終える際に、自らの重力で1点につぶれることで誕生すると考えられている。

(2)ブラックホールの本体
 恒星の中心部での重力は非常に強力であるため、1点につぶれて、中心に「特異点」が生じる。この特異点がブラックホールの本体である。

(3)ブラックホールの性質
 あまりにも重力が強すぎるため、ブラックホールに近づきすぎたものは全てのみ込まれてしまい、光さえも抜け出せなくなると言われている。

(4)事象の地平面
 全てのみ込むブラックホールにおいて、物質がどこまで近づいたら、のみ込まれるかという問題があるが、この線を越えたら戻ってこれなくなるという引き返し限界を「事象の地平面」という。

(5)ブラックホールの存在証明
 2017年に、M87という銀河の中心に巨大ブラックホールが観測された。私たちが住む天の川銀河には数百万個のブラックホールがあり、天の川銀河は太陽の約300万倍の質量を持つブラックホールを中心に回っていると考えられている。

エントロピーと熱力学第二法則

 次に、ブラックホールの謎を考えるにあたり、エントロピーと熱力学第二法則について説明する。

【エントロピー】
 エントロピーとは「無秩序な状態の度合い」、つまり「乱雑さ」を定量的に表す概念である。
 例えば、コップの水の中に赤いインクをスプーン一杯、入れたとしよう。赤インク分子は時間の経過とともに、コップの中に乱雑に散らばっていって、コップの水全体がピンク色になっていく。この場合、赤インクと水が分離されていた最初の状態がもっともエントロピー(乱雑さ)が低く、赤インク分子が無秩序に散らばってピンク色の水に変化した状態がもっともエントロピー(乱雑さ)が高いと言える。

【熱力学の第二法則】
 自然現象には不可逆過程が存在するが、この不可逆変化に関する法則を熱力学第二法則という。エントロピーに関しては、エントロピー増大の法則という形で表現される。例えば、上述の赤インクを水に垂らした例で考えると、赤インク分子は乱雑に広がる方向に変化する。これがエントロピー増大の原則である。

 エントロピー・熱力学第二法則は、以上のような物理法則であるが、ブラックホールを落下する物質にも適用されるのであろうか。ジェイコブ・ベケンスタインは、ブラックホールにおいても、エントロピー・熱力学第二法則は保持されると考えた。
 しかし、多くの物理学者はベケンスタインの主張を否定した。ブラックホールを落下する物質は、どんなに乱雑で無秩序であっても、ブラックホールの中心で全て無限小のサイズに圧縮されるため、あちこちへ漂う原子・分子が無いということになり、エントロピーとは無縁だとみなされたのだ。つまり、ブラックホールがあるところでは、熱力学第二法則が成立せず、エントロピーは失われると考えられていた。

量子対生成とホーキング放射

 このように、ブラックホールでは熱力学第二法則が破綻すると、多くの物理学者が考えていた。しかし、1970年台に現代理論物理学にとって、非常に重要な計算を、スティーヴン・ホーキングが成し遂げ、状況は一変した。
 ホーキングの計算を理解してもらうために、以下で量子対生成とホーキング放射と呼ばれる現象について説明する。

【量子対生成】
 湾曲していない空っぽの時空にある量子場には、量子対生成という現象が発生する。例えば、電子とその反粒子である陽電子のような、対になる粒子が無から瞬間的に湧き出し、つかのま生きて、その後に衝突して互いを消滅させるという現象である。

【ホーキング放射】
 ホーキングが量子対生成について、ブラックホールの事象の地平面近くで検討したところ、通常通りに量子対生成が作用しない場合があることを突き止めた。粒子がブラックホールの縁に近い場所で生成されると、片方の粒子はブラックホールに吸い込まれるのに、もう片方の相棒は宇宙の彼方に飛び去ることがあり得る。ブラックホールに吸い込まれず、宇宙の彼方に飛び去る方の粒子は、ブラックホールの事象の地平面のすぐ上から飛び出し、放射のように見えるため、この現象はホーキング放射と呼ばれている。

 ホーキングの功績は、このホーキング放射の発見だけではない。重さや大きさが様々なブラックホールを集めた場合、近くの物質と放射を引き入れるものもあり、互いに衝突するものもあるが、ブラックホールの表面積の合計が時とともに増えることを発見した。さらに、その後、ブラックホールの温度と出てくる放射を特定する理論的計算を行うことで、標準的な熱力学の法則でブラックホールに含まれるはずのエントロピーの量を特定した。そして、ホーキングの答えは、ベケンスタインの主張と同じく、エントロピーの量はブラックホールの表面積に比例していた。すなわち、ブラックホールがあるところでも、熱力学第二法則は成立し、どんな状況でも、エントロピーは増大することが立証されたのである。

エントロピーと情報の量

 ホーキングは、エントロピーの量がブラックホールの表面積に比例していることを証明したが、ここで、そもそもエントロピーの量とは何かを考えてみたい。エントロピーとは情報量の尺度である。と言っても、分かりにくいと思うので、具体例を挙げて考えてみよう。
 たとえば、ある会社のオフィスでコインが1000枚、並べられていて、そのコインは表が青色、裏が赤色のコインだったとしよう。1000枚すべてのコインが青色(表)で並んでいた場合、誰かがこっそり1枚だけ裏返して赤色にしたら、すぐに他の人が気づいてしまう。この状態はエントロピー(乱雑さ)が低い状態といえる。それに対して、1000枚のうち、550枚が青色(表)、残り450枚が赤色(裏)だった場合で、かつ青色・赤色の並び順に規則性がない場合は、誰かが1枚だけコインを裏返して色を変えても、おそらく誰も気づかないだろう。この状態はエントロピー(乱雑さ)が高い状態といえる。
 次に、情報量とは何かについて考える。情報量とは「Yes・No」疑問文の数であると考えると分かりやすい。例えば、上記の1000枚のコインの例で考えると、以下の「Yes・No」疑問文が成り立つ。
・1枚目のコインは表向きか→Yes
・2枚目のコインは表向きか→Yes
・3枚目のコインは表向きか→No…
といった具合に、1000枚目のコインまで、1000回の「Yes・No」疑問文が成立するので、情報量は1000である。あり得る配置の総数は2の1000乗であるが、この場合、エントロピーの量は1000と定義される。
 このようにエントロピーの量と情報量は1000で等しい。したがって、エントロピーの量とは「Yes・No」疑問文の数であり、エントロピーは情報量の尺度であると言える。
 なお、コンピューターに詳しい人はご存知の通り、「Yes・No」疑問文で答えられるデータは「ビット」と呼ばれる。0か1を表す「バイナリー・ディジット(二進数字)」を短縮した言葉であり、0と1がYesとNoを表現している。私たちが日々、利用しているパソコンは全てビットの処理によって動作している。それに対して、私達が日常生活で利用しているのは10進数で、0から9までの10個の数字を使って数を表しているが、パソコンの画面に映っている数字が10進数であっても、コンピューターの頭脳であるCPUでは、0と1のみの2進数で処理されている。例えば、10進数の「1023」という数字は2進数に変換すると「0011 1111 1111」であり、パソコン画面に「1023」と10進数で表示されている場合、CPUでは「0011 1111 1111」と処理されているのである。

エントロピー・情報量とブラックホールの関係

 それでは、このエントロピー・情報量とブラックホールの関係はどうなっているのだろうか。ここでは、ホーキングの考えたアルゴリズムに従って、ブラックホールの事象の地平面を、一辺が1プランク長さ(10のマイナス33乗)の区画に格子状に分割する。そうすると、その事象の地平面を覆うのに必要な区画数、つまり平方プランク単位(1区画につき10のマイナス66乗平方センチ)で表したブラックホールの表面積は、ブラックホールのエントロピーに等しいことを、ホーキングは数式で証明したのである。
 ここで驚愕すべきことは、情報の量が、三次元の空間の体積ではなく、二次元の平面の表面積によって決まってしまうことだ。この事実がどれだけ驚くべきことかを理解してもらうために、図書館の蔵書の情報量を計算する場合を考えてみよう。図書館の情報量がどれくらいかは、その図書館の敷地の平面(二次元の地面)の表面積ではなく、三次元の空間の体積で決まる。理由は当然のことながら、体積が多い方が多くの書物を収容できるからだ。例えば、同じ1000平方メートルの敷地面積の図書館が二つあったとして、片方が1階建て、もう片方が50階建てだったとしたら、体積が多い50階建ての図書館の方がより多くの書物を収容できるので、情報量が多いということになる。このように通常、情報量は表面積ではなく、体積によって決まる。したがって、ブラックホールのエントロピーという情報量が、三次元の空間の体積ではなく、二次元の平面の表面積で決まってしまうことは、完全に常識に反する。しかし、ホーキングの数学的証明によって今までの常識は覆されたのである。

ブラックホールとホログラフィック理論

 このホーキングの数学的証明がきっかけとなり、二次元の平面の情報が、三次元の宇宙に反映されていると考えるホログラフィック理論が生まれたのである。上述したブラックホールの事象の地平面の区画の一つ一つは、それぞれが1ビット、つまり1か0かを伝えていると考えられる。ヘーラルト・トホーフトとレオナルド・サスキンドは、情報がブラックホールの表面に蓄積される現象は、ブラックホールだけに当てはまるのではなく、普遍的であるはずだと主張した。どのような空間領域でも、そこで発生する物理現象を記述するために必要な情報は、平面上のデータに完全にコード化できるので、その表面(平面)こそが、基本的物理現象が実際に発生する場所であると考えることは理にかなっている。サスキンドとトホーフトによると、私達が慣れ親しんでいる三次元の現実は、遠くの二次元の表面で起こっている物理過程を、ホログラフィーで投影したようなものだという。もし、この論法が正しいのであれば、私達の空間での経験と、遠くの表面で起こる現実は完全に同期・連動しており、2つの平行宇宙が存在することになる。
 ホログラフィック理論は、高度な数学的証明から構築された理論体系であり、今後も研究が進展してくだろう。

この世界は幻想か

 それでは、ホログラフィック理論が正しいとして、この世は幻想と呼ぶべきであろうか。
 以前のコラムでは、量子力学の祖と言われるマックス・プランクの「あらゆる物質は存在しない。 全てのものは振動で構成されている」という言葉を紹介した。また、別のコラムでは、量子力学の数学的土台をつくったヴェルナー・ハイゼンベルグの「原子はものではない」という言葉を紹介した。量子力学の目覚ましい発展によって、粒子が同時に二つ以上の状態をとれる量子重ね合わせや、粒子が壁をすり抜ける量子トンネル効果などのような現象が証明されており、原子が物ではなく、物質も存在しないという彼らの発言は正しいと言わざるを得ない。そうであれば、私達が目で見ている物質的な形や境界は、「幻想」であるとも言える。しかし、私達は物質的な形や境界に存在しており、そこで生きている私達にとっては、この世界は「現実」であるとも言える。この二面性をどう考えるべきであろうか。
 哲学者のクラウス・ハインリッヒは以下のように実在性を問うている。『どのようにして実在性を理解すればよいのだろう。それは死んだアイデンティティではなく、生きた存在であり、すべての境界は真実であると同時に真実でないのだ
 このハインリッヒの言葉は、この世界を的確に表現している。あらゆる物質も存在すると同時に、存在しないのである。原子は物であると同時に、物ではないのである。そして、この世界は幻想であると同時に、現実なのである。
次回のコラムに続く


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