自性清浄は、如来蔵思想とか、仏性ともいう。
心の自性は本来清浄で、煩悩は客塵、つまり外来のもので、ある時だけあるものにすぎないという。
なので、心を追求して悟ることが仏になることであり。
これが仏法の大目的であるという。
特に大乗仏教で強調して説かれ、密教や禅宗も仏性抜きには成り立たない。
もう少し具体的な例として、盤珪禅師の語録にもあるエピソードをあげる
↑国立国会図書館デジタルコレクションより
https://dl.ndl.go.jp/pid/1185856/1/13
↑を文字起こししたもの↓
上記の例えの通り、
いつも怒っているような短気な人でも、常に怒りがあるわけではない。縁によって怒りが起こる。寝る時などには怒りがない心もある。
つまり、心そのものの性質としては怒りはない。
例えば、泥水として水に混ざっている泥のように、
水そのものの性質を探した時に、泥水を浄化すると、泥は離れるので、水の性質とはいえない。
泥水にも浄水にもあるような。常に変わらない水の性質こそ、水本来の性質といえよう。
話を心に戻すと、煩悩は客塵であり、煩悩がある時もない時も、常に変わらない心の性質を探すこと。
心の本来の性質は何かというと、自性清浄とか、仏性、如来蔵といい。これこそが仏であるともいう。