自性清浄と客塵煩悩

『究竟一乗宝性論』では「一切煩悩は客塵にして、自性清浄心は根本なり」(正蔵三一・八三三上)といい、すべての煩悩は偶発的なものであり、心の本性は清浄であるとする。

新纂浄土宗大辞典

自性清浄は、如来蔵思想とか、仏性ともいう。
心の自性は本来清浄で、煩悩は客塵、つまり外来のもので、ある時だけあるものにすぎないという。
なので、心を追求して悟ることが仏になることであり。
これが仏法の大目的であるという。
特に大乗仏教で強調して説かれ、密教や禅宗も仏性抜きには成り立たない。
もう少し具体的な例として、盤珪禅師の語録にもあるエピソードをあげる


新撰妙好人伝 第12編 (盤珪禅師) 13コマ 自是他非
新撰妙好人伝 第12編 (盤珪禅師) 14コマ 自是他非

↑国立国会図書館デジタルコレクションより
https://dl.ndl.go.jp/pid/1185856/1/13

↑を文字起こししたもの↓

ある僧、盤珪禅師に問うて曰く「私は生まれつきいつも短気にござりまして、師匠もひたすら意見されますけれども直りません。私も悪しきことじゃと存じまして直そうといたしますれども、これが生まれつきでござりまして直りませぬが。これは何と致しましたらば直りましょうぞ。(略)」
禅師曰く「そなたは面白いものに生まれついたの。今もここに短気がござるか。あらばただ今ここへお出しやれ。直してしんぜようわいの。」
僧曰く「ただ今はござりませぬ。何とぞ致しました時には、ひょっと短気がでまする。」
禅師曰く「しからば短気は生まれつきではござらぬ。何とぞした時の縁に依りて、ひょっとそなたが出かす(作り出す)わいの。何とぞした時も我でかさぬに、どこに短気が有るものぞ。そなたが身のひいき故に、向かうのものに取り合って我が思わくを立てがって、そなたが出かしておいて、それを生まれつきというは、難題を親にいいかくる大不孝の人というものでござるわいの。人々皆親の生みつけてたもったは、仏心ひとつで、余のものは一つも生みつけはしませぬわいの、(略)」

新撰妙好人伝 第12編 (盤珪禅師) 14コマ 自是他非 の文字起こし

上記の例えの通り、
いつも怒っているような短気な人でも、常に怒りがあるわけではない。縁によって怒りが起こる。寝る時などには怒りがない心もある。
つまり、心そのものの性質としては怒りはない。
例えば、泥水として水に混ざっている泥のように、
水そのものの性質を探した時に、泥水を浄化すると、泥は離れるので、水の性質とはいえない。
泥水にも浄水にもあるような。常に変わらない水の性質こそ、水本来の性質といえよう。
話を心に戻すと、煩悩は客塵であり、煩悩がある時もない時も、常に変わらない心の性質を探すこと。
心の本来の性質は何かというと、自性清浄とか、仏性、如来蔵といい。これこそが仏であるともいう。


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