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頑張らないと親に似る

ふと気づくと親と同じことやってたりして
ヤバいなあ。親に似てきたのかなあ。
・・って言ってる人がいて、

なんかすごく共感もしたんだけど、
あれ、似ちゃいけないのか?とも思った。

「このままじゃいけない」と思った理由が
「親に似てきたから」だというところが
微笑ましくも悲しい。
親と同じじゃいけないのか。

親という基準点

親って物心ついたときから目の前にいるもので
まあ最初の壁ではある。
親子関係もいろいろだから、
最初から、あってないような壁なこともあるし
永遠に越えられない聳え立つ壁もあるだろう。

一般的には、特に越えたという意識もせず
いつの間にか別物だと思うようになる。
親は親、自分は自分ってなる。

だけどふとした瞬間に親と自分を並べている。
無意識の中に永遠のライバル関係が残ってて
・・面白いもんである。

親とは越えなければならないもので、
一つの基準点なんだな。だから
親と同じようなことやってると思った瞬間、
自分がまだそこにいるというか
その基準点に戻ってるような気がするんだろう。

迷路で同じ場所に戻るような

親から離れて、別の道に行こうとしてるのに
気づいたら同じ道に戻っていたという感覚か。

分かれ道で曲がったはずなのに
紆余曲折繰り返してるうちに戻っていた。
なんか方向音痴の散歩みたいである。

親が自分より立派だと思ってる場合も
同じ道は通りたくないと思うかもしれない。
決して尊敬してないわけではない。
認めている。だからこそ、
同じ道を歩いていては追い越せない。
そんな感覚はわかる気がする。

同じは嫌だ。でもしょうがない、という
気持ち悪いんだけどそんな嫌でもない感覚。
なんかすごく不思議である。

「血」に対する嫌悪感と親しみ

なんか似てきたな、と思うとき、
気づくのはたぶん
同じ「癖」が見えたときだと思う。
なんか気に入らないときは腕組んでる・・
あれ、これ親父もやってたな、みたいな。

これじゃ親に似てしまう、には
半ば諦めが入っている。
歳を取った親の立場や目線が理解できるように
なってしまったということでもある。

父親が咳払いばっかりして
偉そうだと思ってたのに
気がついたら自分も同じことをやってる。

これなんかは癖というわけではなく
歳取ったってことなわけで、
自分が同じようなことをするようになって
歳取るとむせちゃうからだって気づく。

親に似てきたわけではなく、
ひょっとして同じ道を通ってるんだなと
気づいてちょっと悲しいような
懐かしいような気分になる。

やっぱりうまく言えないな。

次回は「バカっぽい擬音」です。

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