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今日なに再読しよう(3) 〜佐藤さとる『だれも知らない小さな国』

死ぬまでに再読したい本がたくさんあります。もう新刊を読むヒマがない!と思うくらいたくさんあります(新刊も読みますけどね)。そんな「再読したい本」を少しずつ紹介していく「今日なに再読しよう」シリーズ。再読する前に記憶不十分で書くこともあるのであしからず。


小さい頃、だれでも心の中に「秘密の三角平地」をもっていた。

大人になっても、それをもち続けている人はいる。
たとえば芸術家(アーティスト)とは、たぶんそういう人たちだ。

芸術家じゃない普通の人にもそういう人はいる。
その壊れやすさ、失いやすさに気づき、大切にそれを守りつづけて生きている人たち。

残念なことにボクはそれに気づくのがちょっと遅かった。

だから、少し壊れてしまっているかもしれない。
もう失われているのかもしれない。

でも、もう「かけら」かもしれないそれを、必死に守って生きている。

この本は、その最終防御ラインだ。

そう思っているからこそ、この本を常に「座右」に置いて生きている。
いつでも手が届くところに置いてある。


まず読み返すのは、第一章の始めの方のこの部分、三角平地との出会の場面である。

 ふいに、そこへ出たときの感じは、いまでも、わすれない。まるでほらあなの中に落ちこんだような気持ちだった。思わず空を見あげると、すぎのこずえのむこうに、いせいのいい入道雲があった。
 右がわが高いがけで、木がおおいかぶさっている。左はこんもりとした小山の斜面だ。ぼくのはいってきたところには、背の高い杉林がある。この三つにかこまれて、平地は三角の形をしていた。杉林の面が南がわだから、一日じゅう、ほとんど日がささないのだろう。足もとは、しだやふきやいらくさがびっしりはえていた。


なんて素敵な文章だろう。

ふいに、そこへ出たときの感じは、いまでも、わすれない。

ボクはこの本を読み返しすぎていて、もうこの一行を読むだけで、全部読み終わった気になってしまう。

でも、気をとり直して、ゆっくり、慎重に、「そこ」に入っていく。
コロボックルたちが住んでいる三角平地と小山を、心の中で映像化しながら静かに一歩一歩入っていく。

上の文章のように頭の中のカメラを上から右へ、右から左へ、そして足もとへと動かし、しだやふきやいらくさの下のコロボックルのすみかへとぐぅっとズームして寄っていく。

上手に入っていけるときは、心の調子がいい。
そのまましばらく「秘密の三角平地」を満喫できる。

うまく入っていけないときは諦める。
その日は残念ながら三角平地に拒否されている。忙しさか何かで、文字通り心を亡くしている。無理に入らず、出直さないといけない。


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この章にはこんな文章もある。

 ひとりで遊ぶには、もったいないと思ったこともあった。なかまとおおぜいでやってきたら、どんなにおもしろいだろう、とも思った。それでもぼくはがまんした。
 がき大将どもは、見つけたぼくのことなどすぐにわすれて、このたのしい静かな小山を、あらしまわるにちがいない。もちの木も、つばきの座席も、とりあげられてしまうだろう。
 家の近くで、なかまとさわぎながら、ときどきふっと暗い木かげや、つめたいいずみの水を思いだすことがあった。そんなとき、ぼくは、むねをどきどきさせながら、なかまの顔をそっとながめた。
 こうして、その年の夏休みがおわり、秋がすぎた。



心の中に大切にしまっていた「秘密の場所」を、不用意に友人に教えてしまうことはわりとよくあることだ。

ボクにも何度かある。

そう、その「秘密の場所」を親友と分かち合えたらどんなに楽しいだろう、と、そのときは思うのだ。

でも、それは、それが失われはじめる過程でもある。

がき大将どもは、見つけたぼくのことなどすぐにわすれて、このたのしい静かな小山を、あらしまわるにちがいない。

この本は、どうすればいいかも親切に教えてくれる。

物語の後半、この秘密の場所を同じように大切にしている人と出会い、ようやく分かち合うのである。

つまり、「同じ場所を大切にしている人」と出会うのを、ひたすら待つしかないのだろう。


佐藤さとるさんは、なんでこんなに物語の展開を早くしたんだろう、と、若い頃からずっと思ってきた。

コロボックルと秘密の三角平地。
それだけで無限に物語が紡げそうだ。

なのに、豆犬の話と空を飛ぶ話とコロボックルが見えちゃう男の子の話で初期のシリーズは終わってしまう(その後、多少の続編やスピンアウトはあるのだけれど)。

でも、最近、50歳を越えてからだろうか、「佐藤さとるさんは、無理矢理ストーリーを広げていくのがイヤだったんだな」と、思い至った。

ストーリーを作れば作るほど、読者ひとりひとりの想像力は規制されていく。著者の紡ぎ出した物語を優先させ、ひとりひとりのコロボックル物語を紡がなくなる。

たぶんそれがイヤだったんだ。

本当は、この第一話だけでもいい。
続きの物語は、読者ひとりひとりが、心の中で紡いでくれればいい。

佐藤さとるさんはそう思っていたんじゃないかな。



ボクは、もうかなりいい年齢ではあるのだが、それでもまだ「未知の場所」をいくつかもっているらしい。

なぜなら、

ふいに、そこへ出たときの感じは、いまでも、わすれない。

という場所を、いまでもたまに(本当にたまに、なんだけど)心の隅っこに見つけることがある。

もう、そこは本当に大切に守っている。

そこはだれにも言わない。

だれも知らない。

きっと、ずっと、だれも知らない。



古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。