般若心経を覚えておくとなかなか良いよという話
昨日お通夜があったんだけど、そういうとき「般若心経(はんにゃしんぎょう)を覚えておいて良かったな」と思います。
もちろんみんなの前で唱えるわけじゃなくてw、心の中で唱えながらそっと手を合わせるだけなんだけど。
もしくは、たとえお通夜会場や葬儀会場に行けないとしても、自宅から、仕事場から、そっと心の中で唱えるだけなんだけど。
でも、それがかなり心を穏やかにさせてくれるし、とても清らかな気持ちにさせてくれます。何かしら成仏のお手伝いになっているかもしれないし。
だから、あのとき覚えてよかったな、と今でもよく思うのです。
つか、そもそもなんでそんなお経を覚えようと思ったかって話ですよねw
ちょっと特殊な例だと思うんだけど、ボク、般若心経を覚えたの中学3年生かなんかの時なんですw かなり変わってるw
中学高校とへっぽこラグビー部員だったこともあり、わりと体育会系の毎日だったんだけど、それとは別に「古寺仏閣」という渋い趣味も持ってたんです。
歴史小説が好きで、司馬遼太郎はもちろん、海音寺潮五郎、子母沢寛あたりはすべて読んでいたんだけど、そうなると必然的に興味は古寺仏閣に移っていくわけです。
当時、ボクは横浜は保土ヶ谷に住んでいて、鎌倉がわりと近かったことも原因のひとつかもしれません。横須賀線で40分も行けばあの大好きな北鎌倉駅でしたから。
週末は毎週のように出かけました。
1970年代後半、鎌倉はまだすいていて、ちょっと渋いお寺とか行くと「お寺でひとりぼっち状態」とかも可能な感じでした。
で、友人たちも誘い込んで、「古寺仏閣巡り」は加熱していきます。
そのうち目をつぶっても歩けるくらい鎌倉を熟知しました。
どこにどんなお寺がありどんな仏像があるか、どの売店のアイスが美味しいか、どの路地にどんな犬がいるか、どの寺のどこにどんな花が咲いているか・・・ いや、誇張ではなく、そのくらいは鎌倉を把握していました。
で、少年は自然と(?)朱印収集を始めます。
いまは朱印もちょっとしたブームらしいけど、当時そんなの集めてる中高生とかほとんどいないわけですよ。ちょっとした優越感というか、「マニアになった気分」に陶酔するわけです。なんせ15歳(ほぼ厨二)なわけですから。(ちなみにオタクという言葉が出来るのはもっと後の1983年)。
そして、マニア少年は次にこう考えて、もっと陶酔するわけです。
「お経のひとつも言えたらもっとカッコイイぞ」と。
カッコイイか?w
でもまぁそういう発想をしたのですね、当時のボクは。
仏教の真髄になんかちっとも迫らず、カタチから入るあたりが情けないw
あと、写経を経験して「お、般若心経(はんにゃしんぎょう)ってわりと短いじゃん」と思ったのも動機のひとつですね。
般若心経は、仏教の教えのエッセンスを伝えるとても短いお経なんです。
600巻におよぶ大般若経を誰でも読みやすいようにたった262文字(ツイッター2つぶん分弱)にまとめたってものなんです。これがとてつもなく長い法華経とかだったら覚えようなんて気も起きなかったと思うけど、これだけ短いならなんとかなるかな、と。
その上、般若心経は宗派を越えて効力(功徳)があるらしいというのも動機になりました。わりとオールマイティなんですよね、般若心経。
※もうちょっとだけ正確に言うと、浄土真宗や日蓮宗・法華宗は、法華経を根本経典とするため、般若心経を唱えることはないそうです。ただ、唱えても問題視されはしないらしい。
さて、どうやって覚えたか。
ネットもまだない。本も専門書っぽいのしかない。お坊さんに習うのも厚かましい。うーむ・・・
でも簡単です。
祖父に習いました(祖父は会社経営してました。当時はまだ般若心経くらい唱えられる大人がたくさんいたんです)。
習ってみたらわりと楽勝でした。
だって、早口なら30秒くらいで全部言えちゃいそうなくらい短いんです。文字面も漢字も難しいんだけど、祖父に読み方と息継ぎの場所を教えてもらって、3時間くらいで覚えた記憶があります。
それ以来、お寺に行ったりお葬式があったりする度に心の中で唱えています。
ちなみに、覚えるコツはリズミカルに音読すること。これだけ。
いまなら、YouTubeで「教えてくれている動画」もあります。たとえば以下の。
これ聞くとわかると思うけど、字の切れ間と息継ぎは違うんです。
あと、これはすごくゆっくり唱えてるけど、馴れると一気に数十秒で唱えられるようになります。
ちなみに般若心経の意味や内容はわかりません(きっぱり)。
だって、仏陀の教えのエッセンスがこの短い中に全て入っていると言われるくらいですもの。そりゃわからないのです。
一応、般若心経に関する本はいろいろ読んだんだけど、なかなか頭に入ってこないですね。
まぁもともと古代インド語の教えを中国人が無理矢理漢字に当てはめて作ったお経ですから、頭に入りにくくてもしょうがないですね。
たとえば冒頭の「摩訶般若波羅蜜多心経(まーかーはんにゃーはーらーみーたーしんぎょう)」って言葉も古代インド語の「マハーパニャーパラーミターチタースートラ」を無理矢理漢字にしたって言うんだから。
そういう意味では、ちょっと前にネット上でバズってた「般若心経の現代訳みたいなの」を読んでざっくり意味を理解するのが一番いいかもしれない。
知りたい方のために下に貼っておきます。
「般若心経」
超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。
この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。
この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。
見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。
味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。
揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。
先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。
菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな。
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。
勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな。
それができりゃ涅槃はどこにだってある。
生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。
この般若を覚えとけ。短い言葉だ。
意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。
嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。
気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。
いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?
『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』
心配すんな。大丈夫だ。
いい訳ですねw
それはそれとして、どうでしょう?
あなたも覚えてみませんか?
般若心経をさっと唱えられるって意外といいもんですよ。