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「このコップ一杯の水には、ニュートンの脳細胞を作っていた原子が4000個も含まれているんだぞ」
明日の言葉(その11)
いままで生きてきて、自分の糧としてきた言葉があります。それを少しずつ紹介していきます。
最近立て続けに、親しい友人が親を亡くした。
幸いボクの親はふたりともまだ健在ではあるが、昭和7年生まれの父(87歳)と昭和12年生まれの母(82歳)であるだけに、彼らがいない世界はもう手が届く未来なのだろう、と、静かに覚悟している。
今さらっと「彼らがいない世界」と書いたけど、でも、「彼らがいない世界」とは何だろう。
「いない」というのはどういうことだろう。
我々は疑いを持たずに「肉体は消滅する」と言ったりするが、リアルな肉体としてそこにあったものは、本当に「消滅する」のだろうか。
漠然とそんなことを考えるとき、ボクはしばしば、以下の言葉を思い出す。
このコップ一杯の水には、ニュートンの脳細胞を作っていた原子が4000個も含まれているんだぞ。
そして、魂は別にして、肉体という物体も実は「消滅」などしないし、これからも身近に「いつづける」と心の中で思い直して、ちょっと温かい気持ちになるのである。
この言葉は、天文学者であり宇宙物理学者でもある池内了氏が書いた本『天文学者の虫眼鏡』の中に出てくる言葉である。
科学的に計算すると、たった一杯のコップの水の中に、あるひとりの人間の脳を構成していた原子が4000個含まれていることになる、というのだ。
原子とは物質の最小単位だ。
その原子で考えると、例えばひとりの人間の脳だけでも、1兆を1兆倍したほどの原子で構成されている、という。
ひとりの脳だけで、1兆の1兆倍の原子・・・。
全然想像つかないけど、つまりはボクの頭蓋骨の中って、1兆の1兆倍の数の原子が通勤ラッシュのようにひしめきあっているわけですね。
で、その無限に近い数の原子が、「死」とともに拡散するとする。
たとえばニュートンの脳みそがそのカタチを失い、風とともに空間に拡散すると、1兆の1兆倍の数の原子が、空中をたゆたうわけだ(いわゆる「千の風になって」状態ですね)。
やがてそれは水蒸気に含まれて雨となり、土に染みこみ、川に溶け出し、海に流れ込む。巡り巡って水道の蛇口から出て、あなたの手元に一杯の水としてもたらされる。
その一杯の水に、ちりちりばらばらになったニュートンの脳みその原子が、計算上は4000個含まれている、ということらしいのだ。
・・・本当なのかな。
著名な学者の言葉とはいえ、ボクも最初は疑った。
4000個はまぁいいとしても、さすがにニュートンという「特定の人物の脳細胞の原子」が入っている確率は薄いのではないだろうか、と。
だが、有名なシュレディンガーの本『生命とは何か―物理的にみた生細胞』 で以下のようなことが書かれているのを読んで、それもまぁありえるのかも、と思うようになった(こちらは原子ではなく分子であるが)。
いま仮にコップ一杯の水の分子にすべて目印をつけることができたとする。
次にこのコップの水を海に注ぎ、海を十分にかきまわして、この目印のついた分子が七つの海にくまなく一様に行き渡ったとする。
さて。
もし、海の中の任意の場所から水をコップ一杯汲んだとすると、目印のついた分子はいくつはいっているだろうか。
答えは。
そのコップの中に目印を付けた分子が約100個みつかる。
すごい話だよね。
でも、これは計算で証明できるようだ。
なるほど、原子より大きな分子でこれが正しいのであれば、特定の原子が空間に1兆の1兆倍も拡散すると、たとえばコップの水に4000個の原子とか充分にあり得るかもしれない。
つまり、特定の人物の脳細胞の原子が、目の前のコップに入っている可能性は充分にありそうである。
ということは、待てよ?
モーツァルトの脳みそも、シェークスピアの脳みそも、レオナルド・ダ・ヴィンチの脳みそも、この目の前のコップの中に、4000個ずつほど含まれている、と解釈できることになる。
※(原子が含まれるから何の意味があるんだ、という理屈的なことは置いといて、ポエム的に聞いていただければ)。
そう、あなたがなにげなく飲んだその水に、モーツァルトやシェークスピアやダ・ヴィンチの原子が「いる」のである。
そして、その目の前のコップに、そんな昔の人の原子が混じっている可能性があるくらいなわけだから、最近亡くなったあなたの身近な人の原子は、かなり高い確率で、そこに「いる」。
例え火葬してしまったとしても、数兆個は煙とともに空中に放出され、かなり高い確率で、あなたの周りに「いる」。
亡くなった人を遠く思うとき、この言葉を思い出すと、少し平らかな気持ちになる。
あぁ、ボクの周りに、あなたはいるんだな。
あなたは「いなくなる」わけではないんだな。
ボクの周りに無数に飛んでいるんだな。
そして、同時にこうも思う。
ボクもそのうち、無数の原子になって、風に乗って世界をたゆたうことになるんだろうな。
それはそれで、なかなか楽しい状況ではないか。
ボクはこの言葉を反芻するたびに、そんな感じで、毎回ちょっとだけ、死に対してポジティブになれるのである。
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