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青のうた

強引な多数決あり 寒色の付箋もろとも食むシュレッダー 中井スピカ『ネクタリン』
グル・エミル青き釉瓦につつまれて跛者チムールの眠り深けれ 石川不二子『鳩子』
言いがたきことあるならん君のうしろかたまり咲ける犬ふぐり見ゆ 花山多佳子『樹の下の椅子』
少年と呼ばれし頃もいつか過ぎ耳にあてたき青貝のあり 楠誓英『青昏抄』
大皿はすんっと青くて私から失われたる若さを思う 松村正直『午前3時を過ぎて』

 青く見えるものは、青の波長以外の光を吸収し、青の波長の光を反射する。その光が目に届き、脳が青いと認識する。

 よって、色は光によって変化するし、人によって見え方が異なる。異なるといっても、おおまかには、類似性がある。だから、ある色について、人と人とが会話するために、色には名前がある。

 このような色の在り方は、歌が読みによって変容するという在り方と似ている。歌を読むことは、新しい色に名前をつけるような行いだと思う。

 色には温度があり、青系統の色は寒色とされる。中井作品は、会議資料を処分している場面だろう。「食む」という語から、シュレッダーの怪物めいた音や振動が想起される。そして、分別されることのない付箋が、無視された少数意見を思わせる。

 不安やかなしみで、体温が下がるような体感を、「寒色の付箋」が伝えている。

 石川作品には、小池光の本で出会った。<巨大な帝国を一代で成した草原の王者が、また、片足を不自由に引く者であったことは、その紺青の天と屋根の色をさらに陰影深いものにしているともいえよう。>(小池光『短歌物体のある風景』より)

 青には鎮静作用がある。イスラム系のチムール王朝を築いたチムールの墓所のドームは、青いタイルで彩られている。戦いに満ちた人生を歩んだチムールの魂を鎮めるかのような青だ。

 花山作品。この青も忘れがたい。友は何か悩んでいる様子がある。それを問い質したりせず、ふと、友の背景に視線をずらしているのがやさしくていい。

 まるで友だちの、ゆううつな気持ちが、外にはみ出したかのように、ブルーな花が咲く。

 楠作品。青貝は、らでん細工に使用されるような、虹色にかがやく貝の総称だ。いかにもな「青」ではないのに、なぜ青貝と呼ぶのか。そこには、赤・黒・白のいずれでもない中間色をすべて「アヲ」と呼んだ、色の歴史がある。

 この歌では、青貝という漢字表記がきいていて、少年時代のうす水色のイメージとの響きあいがある。貝がらを耳にあてると、波の音がきこえるというが、青は海の視覚イメージもつれてくる。

 松村作品。食べると若返るという伝承のある、人魚の肉を食べ終わって、その皿を歌っている。

 「すんっ」というオノマトペから、「若返りたい」という熱狂が急激にさめた様子を感じる。青さは、若さの象徴であり、同時に、それに対するあきらめ、断念をもあらわす。決して戻らないものとして、ふりかえる時にだけ、若さはかがやいているのだろう。

*この文章は塔2023月11号「特集 色と色彩」に掲載して頂いたものの再掲です。