【和泉式部日記】1.和泉式部のものの見方と表現①「木の下くらがりもてゆく」
『和泉式部日記』の冒頭部から、和泉式部の世界を見る視点の巧みさ、そしてそれを言語化する表現力に飲まれ、その才能の豊かさにひれ伏す。
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四月十余日にもなりぬれば、木の下くらがりもてゆく。築地の上の草あをやかなるも、人はことに目もとどめぬを、あはれとながむるほどに、……
(今は亡きあの人〈為尊親王〉との仲を嘆き悲しみながら、日々を送っているうちに、いつのまにか)四月十日過ぎにもなってしまいました。木々が生い茂り、木の下の闇もだんだんとその暗さを増していきます。築地(土塀)の上に生えている草の青さにも、他の人は特に目をとめたりはしないのですが、私だけがしんみりした気持ちで眺めていると、……(※1)
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どちらかというと、一般的には、木の葉の青さ、鮮やかさに目を奪われ、そこから初夏へと移ろう季節を描き、語ろうとするだろう。しかし、和泉式部は光の先の「葉の影」に目を向ける。春になって日が経つにつれ、枯れ木が芽吹き、木の葉が茂り影ができてくる。そして、日の光も日一日と強まるに従い、影はどんどん濃くなっていく。
初夏に向けて季節が移ろいゆく様子を「影」で描くことには、為尊親王の死を悼むことが重なる(※2)。為尊親王のいないその春は、明るい光の中で色があふれる春ではないのである。だから、光の中の色鮮やかな木の葉ではなく、「影」によって表現されなければならないのである。そうすると、次につづく「築地の上の草あをやかなるも」の「あをやか」もやはり少し陰りを帯びた「あを」をイメージさせる。
「木の下くらがりもてゆく」という表現一つで季節の移ろいを描くこの表現の巧みさは何なのだろう。この冒頭部を読むだけで、影と悲しみに包まれた春とも初夏とも言えない季節の狭間の映像が眼前に立ち上がるこの描写の凄みは何なのだろう。和泉式部のことばに飲み込まれていく春の夜である。
※1引用元:川村裕子編(2007)『和泉式部日記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) 』KADOKAWA
※2為尊親王は『和泉式部日記』に書かれた時期(1003~1004年の数ヶ月)の前年(1002年)に薨去(こうきょ)した。
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