怒りについての覚書|怒りの背後にある「知性」について
「怒り」について。
私は、人に対して怒りをぶつけることを避けてきた。
そういう態度をとりたくないと願ってきたし、そのトレーニングも受けてきたつもりだ(気づけば20年近くになる瞑想やヨガの実践や、日常でのあれこれを通じて)。
だから、怒りに飲み込まれて言葉を投げることはほとんどなかった。
若い頃から、パートナーとの喧嘩もほとんどしたことがない。
「すり合わせ」や「話し合い」はあっても、苛立ちをぶつけることはまずしない。
色んな状況のなかで、敢えて怒りを見せることはあっても、それに乗っ取られることはなかった。たとえ「まじか!!」と思うことがあっても一晩眠れば大抵のことはリセットされる。
……のはずなのだけど、現在進行形で、そうとも言っていられない状況が起きている。
というのも、先日、キネシオロジーを受けた時、こう言われたのだ。
「さとみさん、身体に怒りが溜まってますよ」
よく話を聞くと、主に胃腸のあたりに、飲み込めないものがあるらしい。
* * *
ここで少し飛んで、私の好きなアーユルヴェーダの話。
インドの伝承医学「アーユルヴェーダ」では「消化の力(アグニ)」を重視する。
消化の力(アグニ)を高め、自分の体質、環境、タイミングにあった食べ方をすることで、できるだけ身体の中に未消化物(アーマ)を残さないようにする。それこそが、健康の土台だと考えるわけだ。
病気や不調の原因は未消化物(アーマ)にある。
だから、アーユルヴェーダでは、未消化物(アーマ)を極力残さないようなライフスタイルを送るために、自分の体質を知るためにドーシャをチェックしたり、消化を助けるスパイスやハーブを食事に取り入れたりする(のだと理解している)。
そして、私が「アーユルヴェーダすごい!」と思ったのは、この先。
「未消化物(アーマ)を残さないことが健康の土台だ」という考え方は、食べ物だけではなくて、心や思考にも言えるということだ。
「未消化物(アーマ)」には、食べ物だけではなくて、処理しきれなかった出来事や感情等も含まれる。
ショックな出来事があると、何も食べたくない……となることがあるだろうけれど、この仕組みに照らすと、それはある意味では当たり前のこと。
これ以上、何か(食べ物や感情)を自分のなかに取り入れたら、未消化物(アーマ)として毒素になってしまう——それがわかっているからこそ拒絶する、身体の防衛反応というか、身体に備わる智慧というか。
「脳腸相関」とか「腸と脳はつながっている」と言われることがあるけれど、腸に限らず、身体ってすごいな!賢いな!と思わずにはいられないのだ。
* * *
ここで話を戻して、再び私の「怒り」の話。
ここ数日、再び、ものすごく大きな「怒り」に出会すことがあった。
詳しくは書けないけれど、とある案件で、私はひどく落ち込んだのだけど、その直後に、強い「怒り」がわいてきた。
ここで「怒りの感情」に取り込まれることは、進行上、得策ではないとわかっている。そうじゃなくても時間は限られる。だったら余計に、できることに目を向けて、建設的に物事を進めるほうへと舵を切っていったほうがいいと、心底思っている。
頭ではそう考えているし、心も、前を向きたいと思っている。飲み込んで前に進んだほうが、みんなにとって幸せだって、よーくわかっている。
だけど、どうやら身体は、それを許してくれないのだ。
というのも、何より私の「胃腸」が拒否している。
この2日間、いよいよ食べ物を欲さなくなってきた。そして、いつもうるさいほどに活発な腸の蠕動運動も、どうやらお休み中のご様子。
「夏バテか?」とも思っていたけれど、経験的に、ここまでの症状は、それだけではなさそうだ。
となると、私に起きた出来事、この感情を飲み込もうとしても、私の「胃腸」がそれを拒否していると考えたほうが自然だろう。
ここで行き着くのは、私のなかに生じている「怒り」だ。
* * *
「怒り」は、二次感情に分類される。
怒りの背景には、それをつくりだした一次感情がある。一次感情は、不安、恐れ、恥や悲しみなどで、一次感情から二次感情への変化は、通常はものすごいスピードで起こる(らしい)。
そう考えた時、私の「怒り」の背景にあるものは何なのか?
それは「悲しみ」なんじゃないかと思っている。
私が大切にしているもの、私が大切にしている人が、蔑ろにされることに対する悲しみや痛み。
ある程度のことならば、飲み込めるだけの強さは備えているつもりだ。
これまでの人生のなかで「まじか!!!」という出来事を含め、清濁合わせ飲むことは、ずいぶんやってきた。この能力、キャパシティは、そんなに狭くはないと思う。
だけど、元々もっているケイパビリティをもってしても、それでも「飲み込んではないけないもの」があるのだろう。
もしかしたら、
「身体の中に取り込んではいけないもの」
は、
「自分の人生に取り入れることを許してはいけないもの」
なのかもしれない。
以前、編集を担当した本『Integral Life Practice』に、次のような表が掲載されている。
「怒り」は、適切に扱われたとき「明晰性、インテグリティ、鋭敏な知性」へと変容していくのだという。インテグリティとは「真摯さ」「高潔さ」のこと。
いっそ清々しいほどに胃腸が突きつける「NO」は、まさに「明晰で、鋭敏な知性」なのではないだろうか。
そして、ここで突きつける「NO」にこそ、私の真摯さ、高潔さ、絶対に捨ててはいけない美しさが隠れているのではないだろうか。
そして、ここで思い出したのが、有名な、神学者ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉。
限りある人生を、よりよく生きるために、太字の部分の「知恵」を授けようとしているのではないだろうか。
* * *
なんてことを書こうと思ったのは、一度は眠ったものの、途中で目が覚めて「やっぱり許せない」と語る私に諭した、パートナーの一言がきっかけだ。
「こんなに怒ることなんて、
そんなに多くないんだから大切にしたほうがいいよ」
私にとって「大切にする」とは、向き合って言葉にし、分かち合うことなので、この文章をここに公開することにした。
念のために書いておくと、この文章は、怒りの発端となった誰かに、怒りをぶつけるためのものではない。キャパシティを超えた感情に対する、私なりの覚書として、ここに残しておく。
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