今だからこそ、敢えて「スピリチュアリティ」について語りたい。
私の人生の大半は、計画してはじめたというよりも「気がついたらこうなっていた」でできている。そして、このプログラムに関わることになったのは、まさにそれだ。
9月末にプレセッション、10月11日からメインセッションがスタートするHuman Potential labのプログラム「スピリチュアル・インテリジェンス 〜思考の限界を超えて、究極の知性に出会う旅」。
そしてそして、「旅の準備」として、プログラムリリース記念の座談会も開催予定(9月21日20:00〜)。
いよいよ開始を待つばかりなのだけど……正直なことをいうと「私がスピリチュアリティを扱うのか……」と、今でもどこかで思っている。
ただ、その一方では「やっとやりたかったことができるー!!!」という感覚もある。
現実は、いつも曖昧で、白と黒のグレーが入り混じっている。だから、一つの企画を形にする時も、表面にあらわれてくるもの以外に、いろんな想いが渦をなし、内側に留めておくのが大変!
「ならば、いっそ」というわけで、プログラムのリリースにあたって、告知ページなど表では語れなかった個人的な感覚、想いなどに言葉を与えてみようと思う。
スピリチュアリティについて語ることの難しさ
「スピリチュアリティ、どう語るか」問題。
まず、正直にいいます。今回、本当に苦労しました。
いちばん困ったのは「スピリチュアリティ、どう語るか」問題。
スピリチュアリティを講座にする下準備として「言葉」に落とし込み、分かち合っていかないといけない。
私は、曲がりなりにも編集者を15年以上やっているし、文章をつくること、言葉を扱うことは、わりと得意なほうだ。
だけど、私が記憶する限り、今回ほど表現に困ったことはないと思う。
スピリチュアリティを、どのように語ろうか、いろんな言葉を並べてみた。
いろんな定義も調べてみた。
いろんな文脈を探ってみた。
だけど、言葉にすればするほど、本質からずれていく気がする……そんな感覚が拭えなくて、ゔゔぁーーーーーッと、それこそ声にならない声を上げながら悶えたことは1回や2回ではなかった。
「大切なことは、言葉にならない」
でも、悶えながら、ふと気がついた。
そもそも「言葉」にできることは、本質のうちごく一部なのではないか?と。
だって、書き言葉が生まれたのは、たかだか数千年ちょっと(日本語の書き言葉が生まれたのは平安時代らしいから1000年ちょっと)。
だけど、スピリチュアリティを探究する伝統は、書き言葉の伝統よりも、ずっと長いはずだ。
人である以上は、生まれ、やがて死ぬ。
「生」と「死」をどのように受けとめるかは、大昔のご先祖さまにとっても、大きな関心事だったはず。土偶に妊婦さんが形作られているのは、それだけ「いのち」への関心が高かったからなのだと思う。
たぶん、私たちのご先祖さまたちも「生きること、死ぬこと」と必死に向き合いつづけてきたはず。その積み重ねのなかで、文明が生まれ、文化が生まれ……その現在地として、今、私はここにいる。
人類の歴史と、スピリチュアリティを探究することは、ほぼほぼイコールのはず。一人ひとりの「生」の、「いのち」の格闘を、簡単に定義づけるなんて、私にはできないと、正直なところ思った。
映画「海獣の子供」の主題歌で、米津玄師もうたっていた。
この映画も、スピリチュアリティに溢れている。
ふしぎで、美しい。そして、どういうわけだか見るたびに夢の世界へ誘われる……
こういう圧倒的なものに触れると、言葉で語ることは、スピリチュアリティの本質ではないと、つくづく実感する。いや、少し違うか。スピリチュアリティの本質を表現するには「言葉」だけでは足りない。
だって、スピリチュアリティ的な出来事・体験の「意味」をロジカルに捉え、言語化しても、どうしたって零れ落ちてしまうものがあるのだもの。
だから、ムリにすべてを言葉にする必要なんてないのかもしれない。ふとした時に訪れた体感・体験を受けとめて「あぁ、こういうことなのかな」と腑に落ちた感覚とともに生きていられればいいのではないかと、思うのだ。
大切なことだからこそ、言葉にしたい:スピリチュアル・インテリジェンスの可能性
だけど、そうは言っても、負けず嫌いの私もいる。
大切なことだからこそ分かち合いたい。
分かち合うために、最大限、言葉にしたい。
そんな探究者としての、言葉を扱う者としての意地のようなものあるようだ。
「言葉とは不自由なものだ」
落語の名人、立川談志師匠は生前、こう話していたらしい(立川談春さんの落語会に行った時に聞いたエピソード)。
どれだけがんばっても、言葉で「本質すべて」を表現しきることはできない。
談志師匠の発言には、話芸を極めようと「言葉」に向き合ってきたからこそ感じられる悔しさが含まれているような気がする。
ただ、そうは言っても、言葉に影響を受けつづけて、言葉によって世界を認識し、形づくる私たち。
最大限の努力をして、自分が「本質」だと感じるものを言葉にしたいと願う態度もまた、スピリチュアリティの実践なのかもしれない。
そんな、できる限りの努力をしようとしたのが、この講座のタイトル「スピリチュアル・インテリジェンス」というコンセプトなのだと思う。
もちろん、これがスピリチュアリティの全てだとは言えないけれど……
探究の出発点として「まず、ここ」から始められると良いのでは?思っている。
「スピリチュアリティ」の「定義」を手放すかわりに届けたいもの
とはいえ、これはあくまでも探究の出発点で、ゴールではない。
「みんなで、スピリチュアル・インテリジェンスを鍛えよう」という趣旨では、決してない。
そうではなくて、このプログラムは「探究の旅」なのだ。
スピリチュアル・インテリジェンスという、誰もが生まれながらにもっている知性を頼りにしながら、自分なりの探究の道を歩んでほしいと思っている。
そんな想いから、私たちは、講座の企画にあたって「スピリチュアリティ」の定義を手放すことにした。「これ」と、端的にロジカルに共有できるスピリチュアリティの定義を敢えてしない。
だって、本来はできないものを、無理やり定義しようとすると、苦しくなるし、どうも言葉が浮き足立ってしまうのだもの。
だけど、その分、講座のなかでは、いろんな角度、いろんな視点、視座から「スピリチュアリティ」を探究し、実践する機会をつくることにした。
ナビゲーターも、特定の宗教・宗派に留まらず……それどころか、宗教家的な、いわゆる”スピリチュアルの人”だけではない、さまざまな領域の方をお呼びすることにした。
そんな多様なナビゲーターの肉感のこもった言葉を味わい、旅のなかで起きてくるさまざまな体感・体験をつむぎあわせて、お一人おひとりが自分なりの「スピリチュアリティ」を捉えなおす機会になればいいと願っている。
ちなみに、、、
余談として、ナビゲーターの方々には、こういう細かいコンセプトが固まる前に、フワッと「スピリチュアリティに関する連続講座をしたい」とだけ打診したのだけど、みなさま開口一番で「OK」。
「説明するの難しい……」というこちらの葛藤を、いとも簡単に超えていくナビゲーターの方々には、尊敬しかない。
さすがの猛者たちがどんな場をつくり出していくのか、本当に楽しみだ!!
SNBR:Spiritual But Not Religiousという在り方
スピリチュアリティを語ることは、本当にタブーなのか?
もう一つ、スピリチュアリティを語ることに伴う別の「難しさ」がある。
スピリチュアリティには「怪しい」「危ない」というイメージがついてまわる。
オウム真理教の問題や、さまざまな新興宗教にまつわる噂……はたまた、近ごろだと宗教団体と政治の癒着が問題視され、ますます宗教的なものは「タブー」になりつつあると認識している。
少なくともビジネスの世界で、話題にあがることはほとんどない。
このことを考えると「語っちゃまずいかな…」という想いもあるのだけれど、その一方では「タブーとされているからこそ、語りたい」という自分もいる。
だって、タブーとして言葉を奪われるとうことは、考えなくさせること。
考えなくさせられればされられるほど、スピリチュアリティや宗教についてのリテラシーや知性が失われていってしまう……。
その結果「本当に大切なもの」と「偽物」の区別させつかなくなってしまうのではないかという、危機感を抱いている。
タブーとされているからこそ、敢えて語りたい。
語る必要がある。
それが「宗教」「スピリチュアリティ」といい関係を築くために、大切なことなのだろうと思う。
「宗教」なのか、「スピリチュアリティ」なのか
私は、ケン・ウィルバーの書籍のなかで出会った、このコンセプトがとても好きだ。
SBNR(Spiritual But Not Religious)とは、無宗教型スピリチュアリティ層のことで「特定の宗教を信仰しているわけではないけれど、精神的なもの(スピリチュアリティ)を大切にしている」態度のこと。
アメリカでは、この無宗教型スピリチュアリティ層(SBNR:Spiritual But Not Religious)が増えているという。
また、アメリカのシンクタンクPew Reserch Centerの調査によると、調査対象の4分の1が「SBNR」に属しているそうだ。
私は自分を「SBNR」だと思っている。
そして、こう自分を定義できると、ものすごく楽になる。
なぜならば、特定の宗教、信仰をもっていない私でも、スピリチュアリティを探究することがゆるされた(ような気がする)からだ。
私の学習が足りなかったことが大きいと思うのだけど、私の身近にあった「宗教」は、どうも性に合わなかった。
仏教徒の家に生まれて、朝晩にお経を唱える……なんて生活をしてきたけれど、そこで語られる世界観や教えは、私が「もっと探究したい」と思えるようなものではないし、人生の一部として向き合うこともできなかった。
だから、厳密にいえば私は「無宗教」なのかもしれないけれど、私は、自分を超えたなにものかの存在を信じている。
いのちを生み出す源泉、神、流れ、プロセス、自然の力、タオ、宇宙の根源、something great……いろんな呼び名をつけることができるけれど、私は、そんな「なにものか」の存在に想いを馳せながら生きている。
……なんて言ったら「怪しい人」「ヤバい人」になるのだろうか。
でも、事実なのだから仕方がない。
人生の物語の「つくり手」に想いを馳せる
そんな「なにものか」は、人生という物語の「つくり手」に近いような気がする。
「一人ひとりの人生の物語の脚本をつくった存在」
実際のところ、これ(↑)が「いる(ある)」と思わないと、一人ひとりの物語が、あまりにもできすぎていると感じてしまう。
次から次へと起きる「有難い」「あり得ない」出来事の数々には、”偶然”のひと言で片付けられない”なにかしらの力”が働いていると思わなければ納得できないのだ。
このこと(人生のつくり手さん)は、この記事でも書いているので、よかったらあわせてどうぞ。
「スピリチュアリティ」を語ること、探究することを、許しあいたい
最後に少しだけ自分の話をすると、私は、10代の頃から「自分の人生に納得感が得られない感覚」を抱いていた。
家族の問題で、色々と息苦しさを感じていた……というのもあるけれど「どうして私は生きているのか」「いつか必ず死ぬのに、なぜ生き続けなければいけないのか」という問いに、事あるごとにつかまれては「今を生きていない感覚」「人生がはじまらない感覚」があったのだ。
でも、高校までの授業では、その答えは得られなかった。
実家で信仰していた宗教の教えもそう。
地域のコミュニティの活動でも「美しい言葉」「美しい理念」を掲げていても、どこか地に足のついた感じがしなくて、納得は得られなかった。
進学すれば、次の扉が開かれるかもしれない。
そんな想いで何となく受験し、偶然行くことになった大学で、たまたまトランスパーソナル心理学や仏教、インテグラル理論、ヴィクトール・フランクルの思想、瞑想の実践に出会うーー
そんな、偶然にしてはできすぎている人生のふしぎなカラクリのおかげで、私は、思う存分「生きるとは何か」「生きることの意味とは」「死をどう捉えるか」といった問いと向き合って、全身全霊で探究し続ける人生を送ってきた。
こんなことをしたり、あんなことをしたりの一部の記録として、過去の記事を貼り付けておく。
一般的にはどうかわからないけれど、私は、自分の人生は幸せなものだと思っているし、今、私は、どこか納得感をもちながらこの文章を書いている。
とはいえ、正直なところしんどさはある。
「生きること」「死ぬこと」を含めて、真正面から全身全霊で人生に向き合うって、正直しんどい。
重力も、重圧も、痛みも、苦しみも、悲しみも、よりダイレクトに感じるような、映画「マトリックス」でいうところの、マトリックスのプラグが外されたかのようなそんな感覚がある。
だけど、その分、よろこびも大きくなる。
美しさに触れたときに感じる感動も大きくなる。
画面越しの、どこかつくられた世界ではなくて、生身の自分として、生身の人生を味わい尽くしているような感覚があるのだ。
私の場合は、この「生きている手応え感」を取り戻すきっかけは、人生のビッグ・クエスチョンを探究すること、つまりスピリチュアリティを探究することがもたらしてくれたと思っている。
だけど、世の中を広く見渡してみると「生きる意味」「死ぬことの意味」を問い、安心して探究することが許される環境が圧倒的に少ない!
だからこそ「本当の人生がはじまらない感覚」に苛まれていた自分がほしかったものをつくり出したい。安心して探究することが許される場を、提供したい!
スピリチュアル・インテリジェンスの旅を企画した背景には、そんな個人的な事情もあるのです。
さて、この旅がどこに向かうのか……は、そこに集う人たち次第。
スピリチュアリティの探究の道は、いわば、一人ひとりが生きて死ぬ道。
一つとして同じものはない、完全に、オリジナルなもの。
そんな多様な道がどのように交わっていくのか、交わったところでどんな摩擦が生まれて、磨かれていくのか……とても楽しみです。
探究の旅をご一緒できますのを楽しみにしています。
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