「素直じゃない人」は放っておきたくなるけれど、本当にそれでいいのだろうか|成人発達理論・インテグラル理論の視点から考えてみる。
1月24日。
縁あって関わっているreborn株式会社で「一日1put」なるものをはじめた。
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今日、テーマにしたのは「素直さ」について。
Books & Appsの安達裕哉さんの『一兆ドルコーチ』書評記事を考える材料とさせてもらったのだけど、私はこの記事をきっかけに、ずいぶん考え込んでしまった。
「世界一のコーチ」と評されるビル・キャンベルは、コーチを引き受ける前にコーチが可能かどうかテストしていたという。
そのときの基準は「素直さ」や「謙虚さ」。
素直でない人、利口ぶる人には、コーチングを提供しないそうだ。
それを読んで「たしかにな」と納得したことと「悩ましいな」と思ったことが1つずつある。
まず「たしかにな」と納得したこと。
ビル・キャンベルは、コーチングが可能であるかどうかの基準を「素直さ」「謙虚さ」としていたけれど、コーチングなどの言葉を介した対人支援が効果的な人は、限られているのではないだろうか。
成人発達理論によると「オレンジ/合理性段階(後期合理性段階、自己主導型段階、自己著述型段階:4」が、真の意味で心理療法が効果的に機能し始める段階だという。
その理由は次のとおりだ。
コーチに対して「素直で謙虚」であるのは責任感や主体性が育まれているからだろう。
自分を成長させていけるのも、自分を癒していけるのも、自分次第。
そう自覚しているからこそ、まわりの力を謙虚に借りていくことができる。
そして、それだけの知性が育まれてくると「内省」が可能になる。
ただ、ここで思うのです。
こういう力(責任感や主体性、内省力)をもったクライアントって、そもそも支援しやすい人たちなのでは?
部下育成であれば、間違いなく育てやすい部類に入る。
こういう人が自分のチームに配属されたらラッキーだ。
だって、責任感があって、主体的に仕事に取り組んでくれて、内省もできるのであれば、自分で自分の行動を軌道修正していける。それでも心理的な支えは必要だし、組織内での力学など、多少のサポートがあったほうがスムーズなところはあるだろう。
ただ、基本的には、すでに自分で自分の人生を動かしていく「力」をもっている。そういう部下ばかりであれば、チームは安泰ではないだろうか。
でも、こうした支援がしやすい人たちは、数として限られているのではないだろうか?
ロバート・キーガンの著作によると、アメリカにおいても段階4(合理性段階/オレンジ)に達するのは3割程度だという(参考:『なぜ人と組織は変われないのか』)。
「素直で謙虚」で、自分の成長に責任をもっている人は、たしかに「コーチングが可能」な人であり、支援もしやすい人だろう。
だけど、そもそも母数が限らている(人口の3割程度)。
だとしたら、残りの7割はどうなってしまうのだろうか。
もちろん「コーチング」だけが育成の手段ではないけれど、それでも多くの職場で1on1が導入されて、コーチング的なものがなされている(ここで行われているのが本当に「コーチング」なのかどうか、その質が担保されているかはとても悩ましいけれど……話が複雑になるから提供者側の力量・スキルはいったん脇に置いておく)。
健全に成長してきた、素直で謙虚な人たちであれば、このサポートがうまくはまる可能性が高い。
でも、みんながみんな、そうとは限らない。
もし、成長がそのレベルまで達していなかったり(単純計算で人口の7割はコーチングがうまく機能する準備ができていない可能性がある)、成長・発達の土台はでにていてもシャドーの問題があったりすると、この支援はあまり機能しないかもしれない。
となると、いつか支援が途絶えてしまうリスクもある(支援が途絶える=そのコミニュティ内で厄介者とみなされることでもあり、彼・彼女たちは、心の傷を負う可能性だって考えられる)……
……そんなことが容易に起こり得る状況のなかで、
十分な成長・発達を遂げられなかったことは、その人の責任なのだろうか。
健全な成長・発達を遂げられなかったことは、その人の責任なのだろうか。
これらを「自己責任」と言い切ってしまって、本当にいいのだろうか。
ちょうど昨日、大好きなマンガ「スキップとローファー」の最新刊(8巻)を読んだのだけど、奇しくもこのテーマを考えさせられる描写があった。
主人公は、高校生2年生の女の子。
家族から愛された彼女は、健全に成長を遂げて、今、自立への道を歩んでいる。
そんな素直で前向きな彼女を中心としながら、彼女のような「健全さ」を育めなかった周囲の人物たちの胸のうちや関係性を描いた物語だ。
最新刊では、ある出来事がきっかけとなり、主人公の彼女は恋人と言い争いになった。
そんな彼女たちの言い争いを見ていたのは、「ぶりっ子」と揶揄されるクラスメイトの女の子。その子が主人公に対してひと言。
主人公の立場からすると「なんて意地悪なことを言うのだろう」と思ってしまう。
だけど、実は別のシーンでクラスメイトの自宅の様子が描かれている。
数コマだったけれど、部屋はゴミや洋服、美容道具が散乱し、整理整頓されているとはとても言えない状態。親や保護者の描写はなく、かわりにリビングテーブルには誰かが置いた千円札が2枚……。
私は専門じゃないからよくわからないけれど、ネグレクトの疑いもあるかもしれない。
このシーンをみていて、考えてしまった。
「素直さ、謙虚さ」など、人としての「美徳」といわれるものは、生まれ育った環境によって大きく左右される要素なのではないか。
クラスメイトだって、好んで意地悪を言っているようには見えない。
素直に言葉を受け取れらないとこを積極的えらんでいるようにも見えない。
このシーンだって、主人公に対して「あなたは正しい」と思っている。頭ではわかっている。だけど、それでも受け入れられない何かがある。
そして、そんな自分の歪みにも気づいている。気づいているけれど、それでも自分を変えられないことへの苛立ちや、自分に対する諦め、自分を信用できない想いがある。
……そんな想いが透けて見えるようで、私は、この数コマを見て、胸が苦しくなってしまった。
私のなかにも、こういう部分あるからこそ余計にそうなのだろう。
そして、これが「素直/謙虚じゃない人」の胸の内で起きていることなのだとしたら「素直さや謙虚さがないこと」を理由に支援を断ち切っていいのだろうか、と思ってしまった。
もし素直さを失ったクライアントが「素直さ」を取り戻そうと必死にもがいている途中なのだとしたら、「素直じゃない人は支援しない」と断ることは、その人が成長・変容を遂げる貴重なチャンスをつぶすことにはならないだろうか。言い方、伝え方によっては、大きな心の傷をつくってしまうことにもなる。人が成長しようとするチャンスを見過ごすだけじゃなくて、成長そのものを阻害するリスクだってあるかもしれない。
なんてことを考えたのだけど、これは本当に悩ましい。
なんとか手助けしたい気持ちはあるけれど「素直さ」を取り戻す途中のクライアントが抱える問題が、コーチングで解決するものなのかどうか、という点も気にかかる。コーチングで手に負えるのだろうか、と。
プロであれば、自分の手に負えない仕事は最初から引き受けないことも大切だ。その観点でいけば、「素直じゃない人」は自分の範疇ではないと決めているのは、とても誠実な行為だとも言える。
(断り方としてどんなメッセージを送っているかも、大切なポイントだとは思うけれど)
ただ、実際のところは蓋を開けてみるまでわからないこともある。
問題ないと思って引き受けたら、後になって自分の支援の範疇に収まらないとわかるケースもあるだろうし、傷つきが大きい場合なんかは臨床心理士さんや医療の力を借りる必要もあるだろう。
うーん……やっぱり悩ましい。。。というのが今日の結論で。
人に向かい合ったり、人を支援したりするって、一筋縄ではいかないし単純化もできない。
その奥深さを理解して、できる限り真剣に向かいあう。クライアントと向きあうのはもちろんのこと、自分の力量・スキル・タイプ・志向性と向かいあうことも大切だ。そして、まわりとの連携を含めたさまざまな選択肢を準備できるよう努力を重ねる。
ほかにもできること、やったほうがいいことは色々あるだろう。
「人と本気で向かいあう」ってやっぱり大変な仕事だね。
ただ、だからこそ探究しがいがあると、あらためて思った。
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