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短編小説『Hurtful』 第4話 「隔離室、お爺の独白、売店にて」

第1話前話
翌日の午後になってようやく、杏ちゃんは松葉杖を持つことが許された。
膝はだいぶ痛いらしく、時折顔をしかめている。私は心配のしかたがよく分からず、中途半端に暗いテンションになっていた。
それでも、いつもと変わらない元気ですっとんきょんな杏ちゃんの笑い声が隣で聞こえると、私も安堵して笑った。

「あいつらさぁ、マジ使えないよね」
杏ちゃんが言ってるのは、昨日の夜勤担当の二人の男性看護師のことである。

「ほんとだよね。それでも人間かよ」
と私も言う。

「血も涙もない」
「人でなし」
「屑」
二人で煙草をガンガン吸いながら散々に罵った後、
「あいつらのさぁ、最初に私のほうに駆け寄って来た人いるじゃん。あの人、イケメンで私結構好きだったのに。マジもうないわ」
杏ちゃんが言った。


昼下がりのなんとも眠くなる時間帯、久しぶりにピカピカに晴れている空を窓越しに眺めつつ、喫煙所でカフェオレをチューチュー吸っていた。
客観的に見ても、杏ちゃんはやっぱり私に「依存」していた。

でも「依存」って、何なんだろう。

髪をポニーテールにまとめ、白いTシャツを着て、膝までのハーフパンツを穿いた由美子さんが喫煙所に入って来た。
スリッパ代わりに透明なビーサンみたいなものをつっかけている。

喫煙所では、人が沢山押し寄せてこない限り、だいたい皆、床に直接座る。中には日曜日のおっさんみたいに寝転ぶ者まで居る。
杏ちゃんの場合、膝が痛いのだから無理して床に座らないで、立ったまま吸えばいいのにとおもうのだが、そこは「よいっしょ。っとぉ」と、たった一瞬だけ痛みを我慢し、座り、脚を伸ばし、後は長い時間楽ができたほうが良いみたいだった。

由美子さんは、床に座ると、膝を立てて脚を八の字に開き、更には足首をくねっと内側に捻って、私と杏ちゃんのほうを向いた。

「由美子さん、なんかエローい」
と、杏ちゃんが笑いながら言った。

確かに、由美子さんは胸が豊かで、四十歳相応の妙な色っぽさと、決してスリムではないけれどもやはり年相応の、グラマラスなボディーを所持していた。
しかしそれだけではなく杏ちゃん言うに、由美子さんの穿いている薄手のハーフパンツが、ちょうど局部に食い込む感じで、あそこがムッチリしていてそれが「エローい」とのことだった。

これには私も笑った。
由美子さんは普段なかなか人を寄せ付けない感じだが、いまの由美子さんはいつもと違い、頬を赤らめながら笑い、興奮すらしていた。

人は、様々な多面性によって形づくられているものだが、その人の隠された一面を探っていくと、大抵の場合、エロに辿り着く。
私達三人は次第にテンションが上がり、笑い転げていて、もはや何がそんなに可笑しいのか分からないけれどもとにかく楽しい、みたいなモードに突入。常軌を逸し、要するにハイになって、疲れたからみんな黙るんだけれども、誰かが笑うとまた全員笑い出してしまうというひどい有様だった。
私たち三人が笑っている間、誰も喫煙所に入ってこなかった。
おそらく皆、警戒したのである。





その日、また夕方まで昼寝してしまい、デイルームに戻ると、いつもと空気が違っていた。
しん、としてそわそわした空気感だった。

「丹野さんが隔離室に入れられたの」
と、由美子さんが私に言った。

…え。丹野さん。おばあちゃん。
マサ兄が近寄ってきた。

「丹野さんさぁ、この間から入れ歯するようになったじゃん。入れ歯完成して、歯医者行ってきたんだってよ。そしたらさぁ、テンション上がっちゃったわけよ。綺麗になったもんだから。誰彼構わずずーっと話しかけてるし人の話は聞かないし、上がっちゃって、さっき連れていかれたよ」

そんなことがあったとは。
隔離室は、ナースステーションの真隣にある部屋だ。
「隔離室」という文字のプレートは掛かっていないので、知らない人も多い。
保護室、と呼ぶ患者も稀にいるが、それは看護師がそう呼んでいるだけの隔離室の隠語で、その部屋に入れられても保護なんてされない。
私は幸いにもそこに入れられたことはなかった。
前に入院していた時に誰かが言ってた話だと、なんでも、「ちょっとこっち来てー」と、看護師に手招きされる。
「えーなんだろう」と、看護師に付いていくと、扉をバタン。鍵をガチャ。とやられ、隔離成功。
という仕組みらしかった。

かなりの頻度で、ドアがドンドンドンドン鳴った。
「出してぇー」
「助けてぇー」
ドンドンドン。ドンドンドンドン。

丹野さんの小さな体をおもうと、相当の力を使ってドアを叩いていることが分かる。

喫煙所に入り、煙草に火を付けた。
床には喋ったことのないお爺さんと太った眼鏡のおばちゃんが座っている。丹野さんの悲鳴はくぐもりながらもここまで届いていて、痛ましい出来事に、みんな押し黙って煙草を吸っていた。
やがてお爺さんが、痰が絡んだのだろうか、ああ。ううん。と咳払いをしはじめた。
痰はなかなか切れないらしい。ああ。ううん。あお。

あるいは喉の調子が悪いかなんかで、発声の具合が気になるのだろうか。
分からないが、やがてこれが喫煙所まで届く丹野さんのドンドンドン、と奇妙なセッションをしていることに気が付いた。

ドンドンドンドン。
「ああ。おお。あが」
ドンドンドン。
「ううん。あが」
助けてー。
「ああ。あが。あが」
ここから出してー。
「うん、ああ?」

ドーン。
「あああ」

私はだんだん心配になってきた。声を掛けたほうがいいかもしれないとおもった時、
「あああ、あが、俺もな、そりゃもう嫌でな、あれな」
いきなり言葉を喋りはじめた。

「もうな、うん、ああ、急に連れて行かれてあれよ、もう、あお。
知らん、もう、ああ?あああ、あが。恐かったよぉあんとき。
あれな、監視カメラでもって、全部見られてんの。いや、分からん。
なんか暴れたかなんかしたんじゃないの、俺がね。なんでもいいのよそんなの、叫ぶとかね。ああ?あのー、ベッドにね、縛り付けられるからね、あお、こんなぐいぃぃやられてね、ああああ。いや、違うな。
ベッドとトイレしかない部屋よ。ああ、うん。あとはもう知らんけど」


誰に語っているわけでもなく、奇妙な発声を挟みながら隔離室の独白を続けるお爺も十分怖かったが、私が気になるのはむしろ横に居る眼鏡のおばちゃんである。
こっちが神妙な面持ちでお爺の独り言を気まずくやり過ごしているのに比して、このおばちゃんは終始、涼し気な顔をしてひとり余裕で煙草を吹かしており、このお爺の奇声や話の内容なんかには、一向に平気な様子なのであった。

お爺の独り言が終わり三十秒ほど時間が流れ、やや落ち着いた頃、

「うふ。はははは」

おばちゃんが突然笑い出した。まだ終わっていなかった。

そしておもむろに言い放った。

「トイレっていうより、ありゃ便器だよね」

聞いていたのか。その一言がなんとも恐ろしかった。




日を追うごとに悲鳴は減ってきたものの、いまだ丹野さん不在の、何となく淋しいデイルームである。

「今日あたり丹野さんが出てくるだろうね」と誰かが話している声が聞こえてきた。なんの根拠もない発言のはずだが、なぜかそんな気がしてくるので不思議だ。

マサ兄はよく一人で、テーブルに本を広げて読んでいる。文庫本サイズ。表紙は外してある。およそ似つかわしくない珍妙な光景である。
刈り上げ風の頭。黒のTシャツには白い文字で、何事かイカツい漢字、文言が並んでおり、それドンキとかで売ってるやつかなぁ、とおもうんだけれど、なにしろ文字の書体が劇的すぎて読み取れない。
いやでも、マサ兄がドンキで服買うタイプとも思えない。自分たちの内輪で作ったオリジナル品かもしれない。色々想像させられる服装であった。

私がマサ兄に近づくと、マサ兄はニタ。と笑った。これもマサ兄の不思議ポイントの一つだ。
マサ兄は、愛想だけはめちゃめちゃ良い。誰もどつきまわしたりなんかしない。口調が少し乱暴な時はあるけれども、とにかく礼儀を忘れない。

しかしこのニタ。という笑いが、本当に愛想が良いのか、単に気色悪いだけなのか、なんとも見極めづらい節がある。とにかく私は近づいて、

「マサ兄、なに読んでるの?」
と聞いてみた。マサ兄はまたニタ。と笑った後、挙動不審な人のように、鋭く目を光らせ辺りをキョロキョロし、
「これは誰にも漏らしちゃいけねぇよ」みたいなマジな顔になった。

マサ兄はまたニタ。と笑うと、表紙をめくり、中表紙を見せてくれた。
【新・人間革命  著:池田大作】
おいっまじかよ。創価学会の人であった。その風貌で?
本の中に赤ペンの線が見えた。


喫煙所に入ると、杏ちゃんが紙パックのカフェオレを飲みながらガラス越しにデイルームの様子を伺っているところだった。

「おう」、と杏ちゃんが勇ましい声を出した。
「おお、どしたの」

「なんかね、さっきね」
「うん」
「ヤマウチさんっているじゃん」
「うん、ヤマウチさんね」
杏ちゃん同様にデイルームを見渡してみたが、そこにヤマウチさんが居る訳ではなかった。
看護師四、五人がデイルームの隅にかたまり、何か協議している様子が珍しいとおもった。

「あれ、ちょと待って、ヤマウチさんってあのー、キャップの人だよね?」私は杏ちゃんに確認する。
「そうそう」
「あのオレンジのキャップの、髭の」
「そうそう」

「で、ヤマウチさんがどうかしたの?」
「なんかね、ヤマウチさんがさっきね」
「うん」

「お財布のお金を全部売店で使っちゃったんだって」
「え、全部って幾らくらい?」
「一万円くらい」
「え、売店で一万円も買うものある?」
「おかしいよね」
「おかしい」

「でね、看護師がヤマウチさんのお財布没収してたよ」
「『預け』にされたんだ?」
「うん」
「それでヤマウチさんはどしたの?」
「わかんない。すぐ、部屋いっちゃったから」

「でもさぁ、お財布のお金全部使っちゃったんなら、もうそのお財布を没収する意味なくない?」
「あ、確かに」

「で、ヤマウチさんそんなに何買ってたの?」
「なんかね、看護師たちが全部テーブルに広げて、めっちゃ怒ってて。よく見えなかったんだけど」
「うん」
「バナナジュースが多かった」
「バナナジュース」
「あと石鹸も、五個くらい」
「五個も?」
「うん」

「昨日売店行ったときに石鹸売ってるの見たけど、一個450円くらいしてたよ」
「ぼったくりじゃん」
「そうそう」
「煙草じゃん」
「確かに」
「あとね、なんか、バケツも買ってた」

「バケツは絶対いらなくない?」
「いらないよ」
「売店の人が、おかしいなっておもったらとめてあげればよかったんじゃない?」

「うんー。でも、何買おうと、ひとの自由じゃん」
杏ちゃんが意外にもフラットな声で言った。確かに。
彼女が先程から見つめているのは、いまだ興奮冷めやらぬ様子で話し込んでいる看護師たちの様相だった。

「なんで怒るんだろ」
杏ちゃんがストローを噛みながらぼそっと言う。

「人間って、理解できないと腹が立つんじゃないかな」
と、私は言ってみる。
「そっか」
「わかんないけど」

とっくに空になっているカフェオレを杏ちゃんはまだズルズル吸っていた。私は三本目の煙草に火を付ける。看護師たちの声はここまでは聞こえない。みんな眉を吊り上げて身振り手振りで、さっきまでの異常な一幕をいつまでも再現している。

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