”食べさせる”ことが愛情。


私にとって「食べること」はちょっと特別だ。

どういうところが特別なのかというと、

・ご飯粒をひとつも残したくない
・「誰」と食べるかをめっちゃ大事にする
・あったかいご飯を食べると幸せ過ぎて泣いてしまうことも
・三度の飯より飯が好き

こんな感じ。

一言でいうと、「食べることが異常に好き」なのだ。

正確にいうと、野菜や魚などの原材料や、食を商品として取り扱うスーパーや農産物直売所、畑や田んぼなど、食を取り巻くすべての環境が好き


基本的に人は食べることが好きだと思う。だから別にこの感覚は、「普通」なのかなと思っていた。

でも、ご飯粒を残す人と出会って「残さないで食べてほしいな」と思って、この気持ちを伝えずにはいられなかったときがあってね。

私はなぜ人にお願いしてまでも「残すこと」に嫌な気持ちを抱くのかを考えてみる機会を与えてもらったのだ。


私は父方の祖母に育てられた。

「おいおい、父と母はどうした」

というと、まさかの2人そろって精神病患者だったのだ。


簡単に言ってしまえば、私を育てることが出来るほどの力がなかったのだ。

母は今現在どこにいるのかも、なんなら生きているのかさえ分からない。

父は2020年6月にガンでこの世を去った。

父も母もいない私はどうやってこの歳まで生きてくることが出来たのかというと、祖母と父の妹が懸命に育ててくれたからなのだ。


タヌキやキツネによく出くわすほどの田舎で、農業とほんの少しの内職で生計をたてていた祖母に、突然わたしの育児がタスクに追加されたのだ。

お金も全然なくて、毎日太陽が昇る前から畑に出て、夜は月夜の明かりで草取りをして、働いていた。

貧乏だった祖母は自分の食べ物を一生懸命わたしに分け与えた。

東北の言葉で、「ほら食べなさい」を「かぁー、けぇー」という。

ほら=かぁー
食べなさい=けぇー

だ。「かぁーけぇー」って耳にタコが出来るほど言われた。

当時は、もうまじでいらんって思うほどに食べ物をよこしてくれた。

「もういらないよ…うるさいなぁ」

そんなふうに言ってしまったことも、数えきれないほどある。

いま思えば、

「かぁーけぇー」こそが、

おばあちゃんの愛情を伝える言葉だったんだな、と。


爪も顔も、土と日焼けで真っ黒になってたおばあちゃん。

自分は全然ごはんを食べず人にばかり食べさせていたから、いっつもお腹すいてたと思う。

愛の人だな、そんなひとに育ててもらってすごく幸せ者だなと思う。


生まれてきてしまって迷惑ばっかりかけて、生きているだけで申し訳ないって思ってた。

おばあちゃんや、いとこたちに大変な苦労をかけた。

でも、救ってもらった命だからこそ大事に。

一生懸命、誰かのために生きようって思えた。


舌がピリリとするほどしょっぱくて、とても食べられない量で、ほっかほかのご飯。

台所にはいっつも湯気が立ち込めていて、せっせとご飯を作るおばあちゃんの小さい背中が今も記憶に残っている。


だから、私にとって「食べる」っていうことは、特別で大好きで。お米を1粒も残して欲しくないんだな。


そんな私の愛情表現のしかたも、おばあちゃんと同じで、

「かぁーけぇー」なのである。





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