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煙がただよう空に。

「消えてなくなりたいな」
 突然、頭に浮かんだ言葉なのに、しっくりときた。
 望むなら煙草の火を消した後のような穏やかさが良かった。

 屋上を囲んだフェンス越しに見る空は現実味のない薄い灰色だった。夕方だが月は浮かんでいて、満月と半月の丁度間ほどの形をしていた。雲は少なく月は小さく、とても手の届かない深淵の底にも見えた。遠くの方で、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
 頬を切るような冷えた風が吹き、私は羽織ってきた紺のコートの裾を引っ張った。コートの下は薄いピンク色のパジャマだった。身体は私の意思を無視して肌寒さに震えた。それでも真っ白い豆腐のような病室で、子供の声や薬の匂いの中、ぼんやりとしているよりはマシだった。

 病院生活は私を心底うんざりとさせた。けれど、入院する前の生活にしても、私はうんざりし続けていた。退屈と言っても良い。高校を卒業し、進学も、就職もしなかった私には目的というものがなかった。
 どこか遠くへ行けたなら、少しは充実した日々を送れたのだろうけれど、結局は靴底を擦り減らすような生活が待っている気がして、私はいつまでも行動に移せなかった。そして、気づけば病院に入院し、三ヶ月が経った。その間に、私は二十歳になり、年が明け、成人式まで終わった。

 同級生たちが晴れ着を纏って歩く姿を私は成人式当日も、病院の屋上から眺めた。友達から一緒に行こうと誘われたが、入院していると告げると、とても簡単に引き下がってくれた。写メ付きのメールだけは何通か送られて来たが、表示することもなく、削除した。返信もしなかった。そうやって私は取り残されていく。何も私の中には残らない。
 惨めにでも追いすがった方が楽かも知れないが、どんなに考えをめぐらせようとも、結果は私が一人残される。私はそういう人間で、それはこれまでの経験で分かっていた。

 ポケットから煙草の箱を取り出し、一本を咥えた。箱はそのままポケットに戻す。ライターが指先に触れたが、取りださなかった。
 火のついていない煙草を咥えている時間を私は好んだ。煙草を支えている唇がひりひりと痺れていく。その感覚が頭の中に溜まった余計なもやもやを束の間だが、晴らしてくれるような気がした。
 しばらくその感覚を味わった後、私は煙草の先端にライターで火をつけた。煙が視界をかすめ、唾液に煙草の味が混じった。空へと伸びる煙が途切れることなく、あの遠く離れた月へとたどり着ければ良いのにと思う。

 そうすれば、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように極楽へと登る為、必死になれる。たどり着けないとしても、ここが地獄だと少なくとも理解できるというのに。煙は風に吹かれて、空中に紛れて消えてしまった。
 歩く度にペタペタと音のするスリッパが脱げないよう、注意深く足を動かした。フェンスを沿うように歩き、煙が後ろへと流れていくのを感じる。煙草の灰が長くなった頃、足を止め、携帯灰皿をポケットから取り出し、灰をそこに落とした。がしゃん、と冷え切ったフェンスを掴んだ。

 フェンス越しに私は自分が住む田舎町を見下ろした。病院の前にある道路では、幾台もの車が並んでいた。帰宅ラッシュの時間なのだろう。道路を挟むように幾つかのマンションやコンビニが確認できた。視線を更に上へと向けると、田舎町を覆うように大きな山が二つ聳え立っているのが見えた。そして、その山を削るようにして団地が広がっていた。
 幾つもの一戸建ての家が、まるで虫が集まったように建てられていて、その中の一つが私の住む家だった。が、病院の屋上のフェンス越しに見た風景の中からでは、発見することは難しかった。当然だが、発見できなかったとしても、私の家は目の前に広がる風景の中に存在していた。

 屋上のベンチに腰を下ろし、携帯灰皿に吸いかけの吸い殻を押し込んだ。病人である私は以前と変わらない量の煙草を吸った。今からこの調子であれば、長生きはしないだろう。しかし、それはそれで良いと思う節もあった。病院の廊下ですれ違う足取りのおぼつかない老人を見ると、悲しくて仕方が無くなった。話してみれば、決して悪い人ではなく、むしろ良い人ばかりだと分かる。だからこそ、ただ生き続け、悲しみを湛えるような存在になった彼らのように、私はなれると思えなかった。私は、私が憎むような我が侭で我慢弱く、意地っ張りな老人になるだろう、もちろん生きていればの話だけれど。

 もう一本、煙草を吸おうか、と私が思考をめぐらせている間に、錆ついた独特な音が響いた。屋上に通じる扉が開く時、重く耳障りな音がした。私はその重い扉を開く時、常に肩と腕で体重をかけるようにしなければならなかった。その為、私のパジャマの右肩から腕の辺りには黒い擦れたような汚れが残っていた。
 ナースのおばちゃんでも様子を見に来たのか、と私はベンチから身体をくねらせるようにして、扉に視線を向けた。扉を開けたのは、スーツ姿の見慣れない男性だった。三十代前半ほどの外見で、誰かを探すように屋上をきょろきょろと見渡していた。

 私は、視線を反らし、フェンスに向き直った。それから二本目の煙草を取り出して咥え、ライターで火をつけた。スーツの男が屋上内を歩く音が僅かに聞こえたが、無視した。
「こんにちは」
 男は私の前まで歩いて止まり、躊躇するような人の顔色を窺うような、声を出した。
 こんちは、と私は煙草の煙をゆっくりと吐き出した。

「少し窺いますが、君はナズキという名前ですか?」
 尋ねられて私は眉をひそめたが、そうですけど、と答えた。男は困ったような笑みを見せ、革のバックから一冊の文庫本を取り出した。
「これ、君に返しておいて、と森川くんに頼まれたんです」
 宮沢賢治の銀河鉄道の夜。私は煙草を深く肺に入れた。男の言う森川は私の元カレだった。そして、銀河鉄道の夜は付き合っている時、私が貸したものだ。

 短い礼を告げ、文庫本を受け取った。絵具で描かれたイラストが表紙で、背表紙にバーコードはなかった。昔、母方のお婆ちゃんから譲り受けたものだった。そんな大切な品物を私は平気で他人に貸す。薄情で、安易な自身の行動に今更ながら失望した。

「宮沢賢治、好きなの?」
 男は立ち去るか留まるか、計りかねたような顔をしていた。
「森川よりは好き」
 否定の言葉のつもりだった。が、もりかわ、という名前を口にした時、本人が本を返しに来てくれなかった事実が、深く私の中へと抉りこんできた。
「貴方は誰なの?」
 小さな呟きは、冷たい風に乗って、男に届いたようだった。困った笑みは変わらず、男は「森川くんがしているバイト先の社員だよ」と答えた。
「そうなんだ」

 薄い灰色の空が微かに暗く陰ったような気がした。男はぐるりと屋上を見渡した後、僅かな躊躇を示し、
「……昔ね。俺も君ぐらいの年齢の時に銀河鉄道の夜を読んだんだ。森川くんと同じように、女の子に借りてね」と言った。
 それは馬鹿みたいに深刻な声だった。私は軽薄な笑いをうっすらと浮かべた。
「良いね、そういう偶然」
 短くなった煙草を携帯灰皿に突っ込んだ。
 そして、また一本を咥える。ライターの火は中々点かなかった。私は手で口元を手で覆い、何度も点火ボタンを押さなければならず、苛立ちが募った。
 擦れたような笑いを男は漏らし「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ」と告げ、口元を緩めたまま、こつこつと靴音を鳴らし、二歩、三歩と歩いた。
 男の声はまるで世界の裏側から聞こえた声のようだった。
 
 煙草の先端に灯ったオレンジの火の光りが、青白いものに感じられ、紫煙が風に揺れ、波にさらわれているようにも思えた。男が口にした台詞は銀河鉄道の夜のジョバンニのものだった。
 男の歩行はすぐに終わり、独り言を漏らすような気軽さで、「俺はね、その子の前ではジョバンニだったんだ。それで、彼女がカンパネルラ。そういう関係だった」と言った。そして、男は私を見て「君と森川くんはどうだった?」とオマケのように尋ねた。

 私は首を横に振った。森川と私は、どこにでもある詰まらない男女の関係でしかなかった。感情の籠らない声で森川に、好きだと言われ、軽薄な笑みを浮かべて私は、私もだと答えた。
 さきほど深く私の中に抉り込んできたのは、森川自身ではなく、詰まらない環境から抜け出せず、もがくことさえしない私に対する嫌悪だった。咥えた煙草を指にはさんで、口元から離す。唇がひどく渇いているような気がした。
「……申し訳ない。ついつい感傷に浸ってた。歳を取った証かな。ごめん、俺はそろそろ帰るよ」 
 男は踵を返し、私に背を向けた。そのまま男を帰すことを私は惜しく思った。三ヶ月という長い病院生活が、私の中に空白を作ったのかも知れなかった。

おっかさんは、ぼくをゆるしてくれるだろうか?
 小学校の頃、軽い不登校になった。その時、母方のお婆ちゃん家に預けられた私は、銀河鉄道の夜を読んだ。ジョバンニとカンパネルラの友情を噛み締め、物語の終わりに突き放されたような寒々しい現実を覚えた。決して心癒されるような話ではなかった。だからこそ、私は救われたような気持ちにさえなった。
 男は私の方を見ることなく、「ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって、……」男の自虐的な擦れた笑みを漏らした。それは悲しみに暮れ、涙を流す瞬間のようでもあった。
 ――ごめん。
 男が誰かに謝ったような気がした。けれど、その声は風に乗って聴覚を刺激したものではなかった。男の心の囁き。それが私には聞こえたような気がした。
……いまぼくのことを考えているんだった」しぼり出すように、男は最後の言葉を付け加えた。

 私は銀河鉄道の夜を開き、男の言ったジョバンニの台詞を確認した。それは台詞ではなかった。ジョバンニが思ったこと、カンパネルラには伝わらない想いだった。私の知り得ない地点で男は確実に悲しんでいた。しばらくの逡巡の後、私はカンパネルラの役を続けた。
ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸いになるなら、どんなことでもする。
 私はどこか遠くへと、丁度、銀河鉄道に乗って、知らない場所へ向かっているような感覚を味わった。
けれども、」一冊の文庫本を朗読するだけで、どこかへと到達できるとは思えなかったけれど、その予感を覚えずにはいられなかった。「いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸いなんだろう
 私が今、声にした台詞を言ったカンパネルラは、

 なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえている

 ようだった。私の中に、涙の予感など欠片もない。しかし、泣いてしまいたいような気持は、朗読を始めた時から心の内にあった。
 男が私を見た。どこか必死に、私を通して、違うなにかを見ようとしていた。それは過去かも知れないし、誰かかも知れない。私にその判断は出来なかった。男は、「君のおっかさんはなにもひどいことないじゃないの」とジョバンニの台詞を言った。

 素直に私は男の記憶力に関心し、語りを続けた。
ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸いなんだねえ。」分からない。「だから、おっかさんはぼくをゆるしてくれると思う」私にはいちばんの幸いなど分からない。

 男は私の正面のフェンスに背中を預け、じっと私を見た。私を通して過去の、輝かしい記憶を探ろうとしているのかも知れなかった。
 言葉はなかった。男性と一緒に居て、見つめ合って黙ってしまえば、後はキスでもして、淫らな行為に興じればいい。そういう意味で、男性と見つめ合うことに気まずさを感じたことはなかった。が、目の前にいる男と見つめ合うことに私はどうしようもない居心地の悪さを感じた。目の前にいる男は、これまで出会って来た男達とは違っていた。

 男の後ろにあるフェンスに視線を移した。薄い灰色の月は一層、ぼんやりとしたように見えた。空は随分と暗く、広がった風景の輪郭を黒く塗りつぶしていた。住宅街の家々に明かりがともっていた。そんな中、際立って灯った赤色があることに気付いた。その赤の上には一本の直線を描くように煙が立ち込めていた。
「火事?」と、私は小さく呟いた。男が私の視線をたどるようにフェンスの向こう側を見た。
「ほんとだ」

 消防車はまだ来ていなかった。煙は上へ上へと立ち込んでいく。丁度、煙の目指す先には空があり、そして月があった。私は煙がどこまで行けるのか、確認する術を持ち合わせていない。けれど、煙は月には決して辿りつけはしない。途方もない距離に煙は耐えきることができず、空のどこかで途切れてしまうだろう。明白なゴールは、ある時たどりつけないことが前提として、私達の前に現れる。

「ねぇ、今から俺、すげぇ不謹慎なこと、言って良いかな?」
 男は私の方を見ずに行った。私はよく分からないものの、頷いた。
「あの火事で、もしかしたら人が死んだかも知れない。なんだか、それがとても羨ましいんだ」
 どうして、と私は呟いた。

「少し前に、俺の身近な人が死んだ。分かっていることだった。とても、とても大切な、自分の半身のように思っている人だった。そんな人が死んだ世界で、俺は生きていく。それはとても辛いことで、苦しいことだって思っていたんだ。実際、半身を失った世界は淡白で色褪せたて見えた。でも」
 火事による煙は風に流されながらも、ちゃんと空に向かっていた。届かないと知った月に、それでも手を伸ばすように。
「俺さ」と男は続ける。「半身を失って、ホッとしたんだ。いつ大切なモノがなくなるかって、心配しなくて良いし、これからは好きな場所に行けて、何でも自由にできる」
 男は困り果てた情けない顔で、何かを吐き出すように喋っていた。私はただ黙って、そんな彼を見続けていた。そうする以外に、私はどうすればいいのか、見当もつかなかった。

「ホッとしたことを実感したらさ、俺は本当に自分をぶち殺したくなった。半身を失うことを期待していたんじゃないか、そう考えると死にたくなった。気さえ狂ってしまえば、死ねるんじゃないか、なんて考えた。でも、結局はこうやって生きている。俺はどうしてか、死ぬことができない」

 本当に生きたかったのは俺じゃ、ないはずなのに。小さく小さく男はそう告げた。私は身動き一つしなかった。ほんとうにいいことだって、いちばんの幸いだって、私には分からない。
 空に浮かぶ月だけが私達を見ているようだった。こっち見んな、と私は言ってやりたかった。結局、お前は何もしてくれない。答えも、問いかけさえも、お前はしてこない。まるで役立たずだ。

 唸るようなサイレンが耳を劈き、それが消防車のものだとすぐには気づかなかった。
 伸ばされた手はどうしても届くことはない。掴めたとしても、それはするりと手のひらから零れおちてしまう。永遠なんてこの世には存在しない。
 だから、私は手を伸ばすことをやめてしまったのだ。
「ねぇ、じゃあここから一緒に飛び降りない? もしかしたら、死ねるかも知れないよ」
 ベンチから立ち上がり、私はフェンスを掴んだ。男が泣きそうな顔で私を見た。焦らすような、ゆっくりとした速度で私は彼に手を差し伸ばした。

 男が言う。「知ってた? ここから飛び降りても痛いだけで、よっぽどうまく落ちないと死ねないんだってさ。昔、ここで働いていた看護師さんが言ってたよ」
 そっか。
 と私は呟き、手を下ろした。
「じゃあ、私達は生きていくしかないんだね」
 蜘蛛の糸が垂れてきたとして、それが切れても、切れなくとも、私達はこの地獄のような世界で生きていく。

「そう、だね」男のスーツの裾が風でなびく。「生きていくしかないんだ。目的や理由がなかったとしても、ただ息をしているだけだとしても」
 凍りついたようなフェンスから手を離し、私はポケットから煙草の箱を取り出した。一本を咥え、火は点けず、咥えたまま唇に痺れが訪れるのをじっと待った。そんな私を男は見ていた。
 困惑した少年のような眼だった。ライターで火をつけ、口から煙を漏らす。

「煙草、吸う?」
 男に煙草の箱を差し出す。
 僅かな躊躇の後、
「貰おうかな。君は煙草をとても美味しそうに吸うから」
 と言った。私は煙草の箱から一本を取り出し、口をつける方を男に向けた。指でそれを摘まもうとした男に対し、私は首を横に振った。男は私の意図を計りかねたようだった。が、すぐに分かったらしく、私の指に顔を身を屈めるようにして近づけ、煙草を咥えた。

 煙草は人が咥えなければ火がつかない。
 私は歯と歯で自分の煙草を支え、ひざまずくように足を地面に下ろした。そして、男が咥えている煙草の先端に自らの煙草の先端をくっつけた。

 煙草越しのキス。
 生々しさを欠片も感じられないキス。

 二つの先端がオレンジ色に燃えた。火は重なり合った部分が一つの生物のように揺らめいた。舌に微かな痺れを感じ、喉に渇きを覚え、私はどうしてか泣きそうになった。私と男の間から祈りのように、始まりのように、終わりのように、のぼり始める――、小さな煙。

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さとくら
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