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本を読む速度と書く速度は連動するのか。

 本を読むのが昔から遅い。
 何度か早く読む訓練をしようと思って、一冊読み終わるまで他のことは何もしないとか、小説を段落で把握していくとか色々試した。けれど、結局は一行一行を読み進めて行く他ない、という結論に至った。

 この結論は僕の気持ちを幾分か楽にしてくれた。本は早く大量に読んでこそ、という言説が世界には溢れかえっている。それが正義だと言わんばかりの世界だ。
 そもそも本を早く読むとはなんだろうか。

 僕にも一応、早く読める本がある。それは何人かの著者と、自己啓発本だ。まず、何人かの著者の人は新刊を追うレベルで好きな場合、俯瞰で見た時の主張やテーマが共通するため、「今回はこの方向のテーマね」と把握することができる。
 その後は、出来事と文章の連なりを追って行くだけなので、ページをめくるスピードは上がる。
 自己啓発本は若い時にお金がなく本屋で立ち読みして精読する日々を過ごした結果、根本的に自己啓発で言いたいことを幾つかのパターンに分けられるようになった。
 あとは、新しい自己啓発を読む時は目次でどのパターンかを把握して読む。ゴールは分かっているから、読むのはどのルートかを確認する作業になる。

 ここで僕が言いたいのは早く読める本は確認作業になりがちだと言うこと。
 もちろん、ちゃんと文章は読んでいる。内容も把握している。ただ、新鮮さはない。
 新鮮さを求めて本を読むと早くは読めない。

 考えてみれば当然だ。新鮮なものは、つまり僕が知らないものなのだ。一文を読んでもすぐに理解できない箇所が出てくる。そして、この知らないものを理解していくことに僕は読書の楽しみがある気がしている。

 優れた物語は知らない世界へと連れて行ってくれる。
 ただ紙に印刷された文字(今だと画面に表示された文字)を読んでいるだけなのに目が離せなくなる。そういう体験。
 僕はこの体験の特別性に惹かれて今も本を読んでいる。

 そして、この体験を小説を書いている時にも起こることがある。だから、今も小説を書いているんだと思う。
 目が離せなくなるほど、物語へと入り込む瞬間はほとんどないけれど。 

 小説を書かれる方々が実際どうか分からないけれど、僕は本を読む速度と文章を書く速度は連動しているところがある。
 僕は小説を書くのも遅い。

 これは一つ確かな原因がある。
 僕は小説に関するプロットを(あまり)作らない。ただ、テーマや構造(と何人かの登場人物)は決まっている。何が起きちゃいけないことかとか、何が起きなきゃいけないかもなんとなく分かっている。
 という状態で書くと、知らないことが小説内で起こる。
 こんなことが起こるのかと受け止め、じゃあ次は何が起こるのだろうと考える。
 今、僕はそういう形で小説を書いている。

 そりゃあ時間がかかるわ、と自分でもなる。
 読書も執筆も僕は遅い。そう実感した時にするべきことはシンプルで、人より時間をかけるしかない。変に早く読もうとしたり、書こうとすると雑なことになって綻びができる。
 この綻びは時間が立てば大きくなって、後に致命傷を招く場合がある。

 結局は近道をしないことが近道だと信じて、地味に時間を積み重ねる他ない。
 とはいえ、そんな地味な日々を送ると自分は本当に進んでいるのだろうか、と不安になることがある。「やってる」感がなければ、やってられない時が人にはる。

 なので、僕は今、このエッセイを書いている。
 とりあえず、一〇〇〇字前後のエッセイを書く。内容の出来不出来は横に置いて、破綻がなく読めるのなら掲載する。
 誰かがこれを読んでくれるかも知れない。僕はその事実だけで、前に進んでいると思える。
 
 ーーーー

 という内容のエッセイが出てきた。
 六月頃に書いたもので、その頃に手をつけていた長編小説がまったく進まなくてエッセイに逃げたのだろう。結局、その長編小説は塩漬けにして、ちゃんとプロットを組んで一万字くらいの短編を今は書いている。
 現在、掲載できるものは二本。あと、二本を年内に書いて、読んでもらえたらなと思っている。
 ちゃんとできるかは分からないけれど。

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さとくら
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