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たやすく世界を変えてしまうことの責任と検証。

 対談系のネット配信を見てかたら「私、本気で世界を変えたいって思ってるんです」と言う人がいた。
 続いて、アニメの「ダンジョン飯」を見ていると「生物は必要あって、その姿になっている」という台詞があった。

 世界も、社会も、おそらく必要があって、その形をしている。今となっては古臭く見えるものでも、それが必要だった背景はある。そして、見えにくくなっているだけで、その古臭いものが今を支えている場合もある。 
「世界を変えいた」と言うのは良い。誰でも言うことは自由だ。ただ、言ったからには責任が帯びてくる。それが大人だし、この社会に所属する人間の責務と言っても良い。
 世界が本当に変わった時、それが正しかったのかという検証がはじまる。それは長く途方もない戦いだ。ネットで「私、本気で世界を変えたい」と言う人はこの検証の戦いを理解しているのだろうか、と僕はぼんやりと思った。

 時雨沢恵一の「アリソン」という作品がある。主人公、ヴィルは一つの大陸で産まれた時から始まっていた戦争を終わらせられる宝物を見つける。戦争を終わらせることは良いことだ。そのはずなのに、不幸になる人たちがいた。ヴィルは残りの人生のほぼ全てをかけて、戦争を終わらせたことは本当に正しかったのか、という検証をおこなう。
 これはあくまで物語の話だ。

 けれど、僕は「アリソン」は現実に繋げられる強度のあるテーマを扱っているように思える。少なくとも世界を変えることのゴールは、変えた瞬間ではなく変えた後にある。
 世界を変える。変えたい。僕はそれを否定しない。ただ、気軽に言える台詞じゃないな、と思う。

 言ったら言いっ放しで、何の責任も取らない。そういう人を信用することは難しい。地味でも誰に褒められなくても、変える責任を負うと決めて、実行する人を僕は信用する。
 これはあくまで原則の話だ。ご飯を食べたら、その食器を流しに持って行き、スポンジで洗って乾かす。そういう当たり前をしてくれよ、と。
 ただ、世界を変える。ないし、変わる場合というのは何も誰かの意思によって変わるばかりではない。ここに厄介さがある。

 つまり、意思はないが、世界の変わり目に立っている。そういうことがある。
 僕は最近、結婚をし、名字を妻のものにした。婿入りだ。妻の実家にとって僕は異物だ。家族は最小単位の国家だと言う。妻の実家、一族が僕を受け入れるために変わってくれたように思うし、この先も幾つかの場面で以前ならしなかった選択をするのだろうという予感がある。

 良いか悪いか分からない。けれど、僕は妻の実家のバランスを崩し、作り変える要素の一つを担っている。僕は意思を持って妻の実家を変えようとは思っていない。ただ、妻の実家の人たちは僕のための席を用意してくれている。
 僕は、その責任を背負う。背負うという覚悟は持つ。
 以前とは異なる変化があった時、僕はこの変化は必要があって形成されたものだと周囲が納得できるものにする。そういう責任を持つ時が来るんじゃないか、と思っている。

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