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「大事なのは数じゃない。カウントダウンには何の意味もない。」と気づかされる父の呪い。

 年の瀬ということもあって、お世話になっている元バーのマスター、現カレー屋のマスターのところへ挨拶に行きました。

 11月にテレビで紹介されていたので、人気店になっているかな?と思って、最初に尋ねたところ、

「放送の十五分後くらいに『テレビ見ました』って人が来るくらい、最初の一週間は忙しくて、二週間目で少し落ち着いて、三週間目で完全に落ち着いたって感じだったね」

 なるほど。

「で、注文なにする」

「ビールと、オススメのカレーで」

 と言うと、「じゃあ、あいがけカレーで」となり、マスターのルーの説明を聞きつつ、ビールを飲んで数分、盛りつけられたカレーが目の前に置かれました。

 そこで、「クリスマスプレゼント☆」と、カレーに謎の漬物(?)っぽいものが添えられていることに気づきました。

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「ここ数日、来店してくれた人にサービスしているんだよ。クリスマスプレゼントって言ったのは初めてだけど」

 と言われたので、警戒しつつ、カレーと共に口に入れたところ辛さが十五倍くらいに膨れ上がり、頼んでたビールを一気に飲み、それでも足りずに水を口の中に流し込んだ。

「それ、ハバネロをじっくり煮込んだもので、むっちゃ辛いでしょ?」

 なんつークリスマスプレゼントだ、この野郎っ!

 と思ったんですが、その後にジンの変わったお酒などをサービスしてくださったり、3年前のクリスマスも一緒に盛り上がった話をしたりして、終始楽しい時間を過ごしました。

 来年も通いたいと思います。

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 さて、ではエッセイの本編に入りたいと思います。

 信じられるかどうかなんて
 一端全部賭けてみるしか証明できないじゃん

 は鳥飼茜の「地獄のガールフレンド」にて、22歳の社会人になったばかりの男の子が、付き合いはじめた31歳のバツ1シングルマザーの島田加南(主人公の一人)に言った台詞です。

 恋愛における信じるって言葉を見かけると、僕は自動的に遠藤周作の「愛情セミナー」の以下の文言を思い出します。

 だから私は繰り返して諸君に言う。今日ほど不信の時はないゆえに諸君たち若い者にとって恋愛が大事な時もないのだ。なぜなら、諸君たちはこの何もかもが信じられぬ時代に、人間を信ずる行為を君の恋愛を通して恢復しようとしているからだ。

 恋愛をすることは「人間を信ずる行為」に繋がっている、と僕は一時期、結構大真面目に考えていました(今も半分くらいそう思っています)。
 とはいえ、「地獄のガールフレンド」の22歳の社会人なり立ての男の子みたいな発言をしたところで、現実問題として31歳のバツ1シングルマザーを支えられるのか? と考えると難しいんじゃないか、と言うほかありません。

 なんというか、二十代前半の男の子のすぐ形にこだわるスタンスを信用しろって言うのは無理なのでは? と個人的には思います。
 もし、年上に信用してもらおうと思うのなら、「ハチミツとクローバー」の真山巧の台詞の方が現実的です。

「それにさ
 もし好きな女に何かった時さ「何も考えないでしばらく休め」って言えるくらいは
 なんかさ 持ってたいんだよね」

 持っていたい、というのはお金のことで、真山が片想いしている相手の原田理花は夫に先立たれて、彼が残した全ての仕事を成し遂げること以外に生きがいを見出せていない女性でした。
 真山巧が大前提として、片想いを周囲にいじられるキャラなので、気づきにくいですが、真山はちゃんと自分の好きな女性に必要なものを考え用意している節があります。

 ハチクロには真山を好きな女の子、山田あゆみというキャラクターも登場します。もし仮に真山が山田と付き合うことになっても、真山はさきほど引用した台詞は口にしなかったように思います。
 男の子って好きになった女の子によって、生き方って結構大きく変わるよね、と僕は思うんです。

 もちろん、それは女の子も同様なのですが、まったく一緒だと語れないと感じています。ただ、この違いについて、僕は今、詳細に語ることはできないので、今回は割愛させていただければ幸いです。

 男女に共通することとして、浮かぶのは西炯子の「なかじまなかじま」で「愛は命と引き換えでないと手に入らないもの」というような台詞です(曖昧な記憶ですが)。
なかじまなかじま」の台詞に枕詞をつけるとすれば、今まで愛されてこなかった人間にとって「愛は命と引き換えでないと手に入らないもの」である、という文脈で語られています。

 愛の価値は人それぞれですが、男女共通して自分は愛されるに足る存在ではない、と感じている人間にとって、それでも誰かに愛されようとする時、差し出せるものは命より他にないのでしょう(やや、オーバーな部分はあるにせよ)。

 さてさて、今回テーマにしたいのは村上春樹の短編「日々移動する腎臓のかたちをした石」についてです。
 最近、村上春樹の短編で好きなランキングをつけるとしたら何か? ということを考えていて、上位に入る作品の中で「日々移動する腎臓のかたちをした石」が浮かびました。

日々移動する腎臓のかたちをした石」は高校時代に読んで、これは理解できる作品だ、と思った珍しい一編で冒頭は以下のように始まります。

 淳平が十六歳のとき、父親がこんなことを言った。
 (中略)
「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それより多くもないし、少なくもない」と父親は言った。いや、断言したというべきだろう。
 (中略)
「だからもしお前がこの先いろんな女と知り合い、つきあったとしても」と父親は続けた。「相手が間違っていれば、それは無益なおこないになる。そのことは覚えておいた方がいい」

 これは殆ど呪いの言葉です。
日々移動する腎臓のかたちをした石」を読んだ時、主人公、淳平が父親の「本当に意味を持つ女」の二人目は彼女だったんだ、と気づく内容になっています。

 この点だけ見ると、淳平の中には父親の呪いは残っているように読めますが、その後に以下のように続きます。

 キリエは彼にとって「本当に意味を持つ」女性の一人だったのだ。ストライク・ツー。残りはあと一人ということになる。しかし彼の中にはもう恐怖はない。大事なのは数じゃない。カウントダウンには何の意味もない。大事なのは誰か一人をそっくり受容しようという気持ちなんだ、と彼は理解する。そして、それは常に最初であり、常に最後でなくてはならないのだ。

 淳平は、この時点で父親の呪いを乗り越えたような気がします。呪いはかからないなら、それに越した方が良いに決まっています。
 けれど、呪いにかかっていたからこそ「日々移動する腎臓のかたちをした石」の淳平はさきほど引用したような、結論を得ることができました。

 また、同じテーマとして吉行淳之介の「砂の上の植物群」という長編小説があります。こちらは、「勘違いするな、三十四歳で終わった俺の人生のつづきを、お前に引継がせているのだ。」という父の呪いのような声が聞こえてくる、というものでした。
 こちらも、最後には「これからのことは、既に亡父とは無関係のことなのだ」という場所までたどり着きます。

 僕は呪いの言葉を必ずしも肯定はしませんし、できませんが、呪いの言葉を乗り越えることは一つの人間的な成長を遂げる瞬間なんじゃないか、と思います。

 ちなみに、弟が二十歳くらいに、この「人が一生に出会う中で、本当に意味を持つ異性は三人しかいない。」としたら、何人と出会っている? と尋ねてみたことがあります。
 返答は「うーん、もう既に三人以上と出会っている気がするんだけど、兄貴、俺はどうしたら良い?」と言われました。
 そのままの君で良いよ、と当時は答えました。

 弟は今年二十八歳になりました。
 今、彼に同じ質問をしたら、答えは変わるんでしょうか?
 今度、試してみたいと思います。

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さとくら
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