【読書日記】「自分自身があまりにも大きな謎」なことを知っても、見るべきは世界であって自分じゃない。

 2月が誕生日で33歳になります。その前にしておきたいことを考えて、ミラン・クンデラ冗談」を読み始めました。

 僕の手元にある「冗談」はハードカバーの二段組。一番後ろのページの右上端に「(株)キオク書店」のシールが貼ってあります。 これは彼女と付き合い始めた頃に京都の古本市へ一緒に行って買ったのでした。

 買ったのは良いけれど、まだ読んでいなかったんですね。ハードカバーの二段組で400ページ近いので、腰を据えて読まねばと思っていたというのが一つ。
 それとは別に「冗談」はクンデラが32歳の時に出版しており、チェコ国内で必ず教科書に載り、現在も人気な作品なのだと須藤輝彦のエッセイで知りました。
 そのエッセイはネットで読める上、とても良い内容ですので良ければ。

 あいまいなチェコの小説家──ミラン・クンデラのコンテクスト

 どんなものでも理由が二つ以上できたら、手をつけるべき時なんだと僕は思っています。タイミング的にできない時もあるのですが、姫路に来てからは比較的「すべき」と感じたことに着手できています。有難い環境です。

 では、「冗談」の具体的な紹介に移ります。
 あらすじは以下となっています。
絵葉書に冗談で書いた文章が、前途有望な青年の人生を狂わせる。十数年後、苦しみに耐え抜いたすえ、男は復讐をもくろむが……。政治によって歪められた1人の男の流転の人生と愛の悲喜劇を軸にして、4人の男女の独白が重層的に綾をなす
 ここで重要なのは「政治によって歪められた1人の男」で、彼の冗談は政治的に許される類のものではなかったために、学校にいられなくなり、望んだ仕事に就くこともできず、軍隊に入って奉仕活動を余儀なくされます。
 現代で言えばSNSでやらかした人が学校にいられなくなって人生が狂った話です。チェコの教科書に「冗談」が載っているのも納得の内容です。
 個人的にとくに心に残った一文は以下のものでした。

 あの年頃にはだれでも、自分たちにない、もろもろの謎に立ち向かうには、自分自身があまりにも大きな謎であり、彼らにとって他人が(それがたとえ最愛の人であっても)単なる動く鏡にすぎず、その中に自分自身の感情、自分自身の感動、自分の価値など見て、驚きの目を見はる。

 これは人生を狂わされた青年が少し大人になって過去の自分を振り返っているシーンです。
あの年頃」とは十代終わりから二十代前半を指すのですが、ここで指摘されている「他人が(それがたとえ最愛の人であっても)単なる動く鏡にすぎ」ないことが、若者の人間関係とか恋愛が上手くいかない理由だよなと僕は思う次第です。
 そして、それに気づくには失敗して傷ついて失って、自分で思い至るしかありません。
 厄介ここに極まりです。

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 クンデラの「冗談」をじっくり読んだので、次は小説以外を読みたい。
 というわけで、近藤祉秋の「犬に話しかけてはいけない 内陸アラスカのマルチスピーシーズ民族誌」を手に取りました。

 ゲンロンのイベント「近藤祉秋 × 吉川浩満 なぜ犬に話しかけてはいけないのか? ──人間以外の人類学をめぐって」を視聴もしていて、気になっていた一冊でした。
 なにより僕は犬か猫なら犬派ですし。

 概要は以下のようなものです。
本書は、マルチスピーシーズ民族誌と環境人文学の視点から、フィールドワークを通してアラスカ先住民の人々と「自然環境」との関わりを描く。
内陸アラスカ先住民の人々は、動植物や精霊、土地との関係性のなかで息をひそめながら暮らしてきた。「人間」が問い直されている今、彼らの「交感しすぎない」という知恵から「自然との共生」を再考する。

 冒頭がnoteで読めるようです。

 まず、気になるのは「マルチスピーシーズ民族誌」です。
 本編では「これまでの人類学はヒトを記述の中心に捉え、民族誌を執筆してきたが、マルチスピーシーズ民族誌マルチスピーシーズ民族誌では人間以外の存在にもスポットを当て、人間と並んで記述の主役とすることが目指される。」と記載があります。
 そんなマルチスピーシーズ民族誌と「アラスカ先住民の人々」がどう繋がるのか最初は疑問に思いました。だって、アラスカ先住民も人間で、「人間以外の存在にもスポットを当て」てはいないのでは? と。
 けれど、試し読みできる冒頭を読めばわかりますが、「アラスカ先住民の人々」は「人間の言葉や視線が野生生物のみならず、気象現象や天体にまで影響を与えると考えて」いるそうです。本編の言葉で言えば「人々の周囲には数多の生ある存在が取り巻いていて、彼らの一挙手一投足はそれらが知るところ」なんだとか。

 つまり、「アラスカ先住民の人々」は周囲にある数多のもの(月、クマ、犬、「山の人々」と呼ばれる小人などなど)を人間と並ぶ存在として、彼らの視線を内面化しています。
 本書はそんな彼らから見た狩りの作法や犬の神話、ビーバーなどとの関りが書かれています。タイトルになっている「犬に話しかけてはいけない」のエピソードは「アラスカ先住民」の神話の遍歴を辿る内容になっていました。
 犬はどんな地域でも特別な存在として我々の日常に影響を与えいるんだなと言う素朴な感想が浮かんだ次第です。

 個人的に理解できて面白い点と、上手く呑み込めない点とがわかれる読書体験んでしたが、「マルチスピーシーズ民族誌」の目指す「人間以外の存在」を日々僕たちが生きる日常でも意識させられる内容になっていました。

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 今月はクロームブックの導入によって読書時間が部屋に帰ってきてからの二時間くらいになったため(それも日による感じで)、あまり本が読めませんでした。
 ということで、今月の「読書」に関しては十河の「毒を喰らわば皿まで」が最後の一冊です。
 こちらは行きつけの居酒屋で知り合ったBLの師匠が貸してくれた小説です。

 あらすじは「竜の恩恵を受けるパルセミス王国。その国の悪の宰相アンドリムは、娘が王太子に婚約破棄されたことで前世を思い出す。同時に、ここが前世で流行していた乙女ゲームの世界であること、娘は最後に王太子に処刑される悪役令嬢で自分は彼女と共に身を滅ぼされる運命にあることに気が付いた。そんなことは許せないと、アンドリムは姦計をめぐらせ王太子側の人間であるゲームの攻略対象達を陥れていく。ついには、ライバルでもあった清廉な騎士団長を自身の魅力で籠絡し――」というもの。

 少し前から流行の「悪役令嬢」ですが、その令嬢の父親に転生した主人公が「ゲームの攻略対象達を陥れて」娘が身を滅ぼすバットエンドを回避する話とまとめることができそうです。
 乙女ゲームの王道を裏から見て操作していくような印象で、その手のゲームが好きな人はすっと物語世界に入ることができるのではないでしょうか。

 ちなみに僕は乙女ゲームはしたことがありません。あくまで僕の中にある観念としての乙女ゲームのイメージで話をしています。
 なので、これはプレイしておけって乙女ゲームがございましたら、教えていただければ幸いです。

 さて、僕がBLを読む時の指標があります。
それは以前もnoteで引用したのですが(「BLを「奇跡」の物語として語る「心中するまで、待っててね。」について)、横川寿美子の以下の論考です。

「ボーイズラブ」系の話が女の子に好まれるのは〈同性愛志向を持った美貌の男の子は、物語の主人公として、場合によっては女の子以上に、女の子の抱えている「居場所のない思い」とそこからの救済の方向性を、鮮明に表現できるから〉ということになるかと思う。

 今作の「女の子以上に、女の子の抱えている「居場所のない思い」」を背負わされているのは主人公のアンドリムの相棒であるマラキアです。
 彼は神官長ですが、幼少時代に地方貴族の館に売られて、男に抱かれ、執着した医師の資格を持つ男に男性器を丸ごと切除され、それをきっかけに治癒能力を開花させ、特別な孤児院に預けられて勉学にのめり込み神官長にまで上り詰めました。
 壮大すぎますね。
 個人的に、そんなマラキアを好きになったリュトラが良いキャラで推したいんですが、登場人物の紹介ページにいないため、どんなビジュアルなのか分からないんですよね。
 リュトラの姿を確認するために、コミカライズを買うべきか検討中です。

 総合的には世界観と設定がちょっと複雑で、ん? となるシーンはいくつかあるのですが、気にせず読んでも物語自体に違和感が生まれることはありませんでした。また、後半に進むにつれて、主人公の思惑が分かってくるタイプの小説なので、最後まで読んでから前半を読むと、そういうことかと分かる二度おいしい作品になっていました。

 続きも師匠が貸してくださるとのことなので、楽しみです。
 実は今作で綺麗に終わりすぎていて、続編はまったく想像がついていないんですが。

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 本はあまり読めていないけれど、映画はいっぱい見ました。
 きっかけはディズニー+に加入したからです。
 ということで、つらつらと見た作品を書いてみたいと思います。
 まず、1937年製作の「白雪姫」。で、次に「塔の上のラプンツェル(2010年)」を見て、「シンデレラ(1950年)」と三つ立て続けにディズニープリンセス系統を見ました。

 清水知子の「ディズニーと物動 ――王国の魔法をとく」 にて語られていた分断させた女性として見るとこが可能で興味深ったです。
 具体的には、悪として語られる女性は常に自身の失われていく美しさに対する焦りやコンプレックスを抱えており、それをヒロインに向けることで分断が起こること。
 この時に悪として語られる女性は王子それに類する存在の視線や評価を内面化してしまっている、という構造が本編で語られてはいませんが、見て取れました。
 正直、この男性の視点や評価を(男性側は言っていなかったとしても)勝手に内面化していってしまうことで起こるトラブルは現代でも存在するように思います。同時にこれは男性側でも女性の視点や評価を(女性側は言っていなかったとしても)勝手に内面化してしまう場合もあるなと感じます。
 存在しない観念化された異性の評価(ないし呪い)をどのように解いてべきか、はディズニー作品で答えてくれる作品はあったりするのかは少し興味があります。ディズニーがわざわざ取り組むべきテーマかは疑問のある内容ではありますが。

 その後に見たのが「アナと雪の女王」で、こちらは明らかにディズニープリンセスで語られる『運命の相手』を否定するような内容になっていて、ディズニーは時代の変化に敏感なんだなと改めて実感した次第です。

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 他に2月に見た作品は「ブラック・ミラー」のシーズン1の1話「国歌」とシーズン6の1話「ジョーンはひどい人」です。
「ジョーンはひどい人」は別で語ったので、「国歌」について書くと、あらすじは以下のような内容です。

ある夜、就寝中のイギリス首相に1本の電話がかかってくる。なんと、王家の血筋であるスザンナ妃が誘拐されたという。
首相の元にはスザンナ妃を使った脅迫ビデオが届いており、スザンナ妃の命を救えるのはマイケル首相ただ1人だという。その要求とは”今日の午後4時、マイケル首相がテレビに出演し、ブタと性行為をすること”。
ビデオはYoutubeにも上げられ、この情報は国民の元へも知れ渡っているという

 馬鹿げた要求ですが、ブタと性行為をせざる負えなくなっていく姿と葛藤がリアルです。人間の嫌な好奇心をちゃんと描いているうえに、ラストは非常に後味が悪い。
 おすすめはしませんが、「ブラック・ミラー」シリーズは見て行こうかなと思わせる力の入った作品でした。

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 久しぶりに映画館へ行きました。
 そして見たのが、「劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦」です。独立して見ても面白いと勧められるタイプの作品ではありませんが、原作とアニメどちらかを見ている人には全力で勧められるクオリティーの映画になっていました。


 僕はハイキューが好きすぎる人間なので、冷静な感想は書けないのですが、登場人物の一人、黒尾鉄朗が本当にいい仕事をしていて、彼の視点や言葉によって他のキャラクターたちがより輝き、深みある存在になっているのが良かったです。
 ハイキューはメインのキャラクターも魅力ですが、そんな彼らの魅力を引き出す周りのキャラクターの作りもしっかりとしているのが本当に素晴らしいなと思っております。

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さとくら
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