見出し画像

日記 2023年△月 どんな選択をしても「生きる楽しみ」を失う道を正しく歩く日のために。

 △月某日

 ツイッターで「♯作家は経験したことしか書けない」というのが話題になっていて「経験」であって、「体験」ないし「実体験」と書かれていない点が面白いなと思った。

 内田樹が読書も「経験」だと言う旨のことを書いていたと記憶しているけれど、ミステリーの例えば殺人事件を扱った小説を読むという「経験」をすることで、なんとか殺人事件のミステリー小説が書けるようになるって言うのは理解できる。

 米澤穂信の「愚者のエンドロール」は、未完成のミステリー映画の結末とその裏の真意を探っていく話で、主人公が導き出したラストは叙述トリックものだった。
 しかし、未完成のミステリー映画の脚本を書いた人が勉強で使っていたのはホームズで、まだ叙述トリックが扱われる前の時代のミステリーだった。そのため、主人公のラストは未完成のミステリー映画の真意ではない、と仲間たちから否定されてしまう。

 ここにあるのも「経験」で、未完成のミステリーの脚本を書いた人は叙述トリックものを「経験」していないため、それを書けるのはおかしい、というロジックになっている。
 とはいえ、これはあくまで物語の話で、実際の人間はもうちょっと好い加減で、経験という概念もそんなしっかり定まっている訳でもない。

 ふと浮かんだアイディアが自分の経験や体験とは繋がらないもので、書いたらなんか形になったということは全然あると思う。

 昔、小説の専門学校に通っていた頃、僕が出したプロットに面白黒人男性が出てきて、先生にそれを褒められた。
 この面白黒人男性がどこから出てきたのか僕はさっぱり理解不能だったけれど、先生から
「北野武のアウトレイジ見た?」
 と言われて、「はい、見ました」と返すと
「君が書いたキャラクターアウトレイジで出てきた、あの黒人だったよ」
 とのことだった。
 へぇ、僕、あのアウトレイジの黒人をイメージして、このキャラ書いたんだ、と変な納得の仕方をした。

「アウトレイジ」より

 ちなみに、この時のプロットはロードムービーでマジックミラー号に乗って逃げるシーンがあったことしか覚えていない。
 マジックミラー号で逃走ってなんだよ。

 △月某日

 浅井ラボの「されど罪人は竜と踊る」が四年ぶりの新刊を、それも三ヶ月連続刊行すると知って嬉しくなる。


 ライトノベルを読まなくなって久しい僕だけれど、当時から知っているタイトルが未だにちゃんと新刊を出してくれて、話題にもなっている、というのは感慨深いものがある。

 なんて思っていたら、「とある暗部の少女共棲」なる鎌池和馬の新シリーズが始動していて、「とある魔術の禁書目録」のスピンオフ作品とのこと。
 一応、僕が追っていた頃に登場していたキャラクターたちのスピンオフで、興味が湧く。
 というか、とあるシリーズってスピンオフ多いなぁ。

 昔から鎌池和馬の仕事の速さは話題に上がっていたけれど、今尚持続されているのかな? と思うと、ラノベ界の新妻エイジ感がある。

 △月某日

理解のある彼くん」「理解のある彼女ちゃん」という表現にずっと違和感がある。
 好きな相手を理解したい/理解されたいって普通の感覚じゃないの? 
 なんて思いつつ、ツイッターを巡るとどうも一方的に片方が「理解のある彼(ないし、彼女)」になることを言うらしい。

 お互いに理解し合うっていう方向に向かわないことがやっぱり違和感だった。
 何かしらのハンデがあって理解を求めないといけないって意味合いで使うにしても、「理解ある彼(ないし、彼女)」って言葉はちょっと範囲が広すぎる。

 私(ないし僕、俺)のこういうところは理解してもらわないと一緒にいるのは難しい、とかってことがあるなら、その私(ないし僕、俺)の理解をしてもらうための努力や頑張りも必要で、それを無視して「理解のある」なんて表現するのは私(ないし僕、俺)の頑張りを軽視してる。
 同時に、私(ないし僕、俺)が理解してもらう努力や頑張りをせず「理解」だけしてくれって言っているのであれば、それは人間関係において一方通行の傲慢でしかない気がする。

 とはいえ、パートナーの関係性って長く続いていくものだし、ある一時期にどちらかが支えてもらうってことはあっても仕方ないことだと思うし、そういう一時期の期間だけを抜き取って「理解のある」パートナーって読み取り方をするのも、ちょっとフェアでない。

 うん、僕は男女の関係に限らず、人間関係には常にフェアであろうとすべきだと思っている。もちろん、フェアにならない関係性もあるけど。それでも、そうあろうとする気持ちは忘れてはいけないのでは。

 △月某日

 舞城王太郎の「短篇七芒星」を読む。


 タイトル通り、七つの短篇が収録されている。ツイッターで一瞬話題になっていたのは「代替」の冒頭だった。

 ろくでもない人間がいる。お前である。
 くだらないことに執着して他人に迷惑をかける人間がいる。これもお前である。
 何を触れても誰と関わっても、腐敗と不幸をもたらす人間がいる。まさしくお前である。
 マジでびびるほどだ。おいおい、神様はどうしてお前みたいなクソをこの世に配置したのだろう?どのような側面においてもプラスとかポジティブとか前とか上とか善とか良とかとは反対の性質しか持たないお前が、どのような因果でここにいて、ひたすら周囲をダメにしているんだろう?

 この登場人物の背後霊的な存在が語り手として設定されている手法は舞城王太郎の「淵の王」や「勇気は風になる。」といった作品でも疲れている。
 今作はそんな舞城王太郎の手法がぎゅっと凝縮された一冊になっている。

 僕は舞城王太郎の新刊を常にチェックしているファンなので、はいはいコレねって感じがあって楽しく読んだ。
 ただ、舞城王太郎に初挑戦するぜって人には、え? なんで、こうなるの? とか、このキャラの背景なくね? とか疑問に思ってしまう部分はある気がする。

 いやでも、これが舞城王太郎だからなぁと言う他ない訳だけれど、初めて読む人は楽しめないのかって言うと、そんなことはない。
 個人的にオススメは「狙撃」と「落下」。

狙撃」は狙撃兵になって活躍する主人公の弾が消えるようになる。そして、その弾が遠く離れた人間の心臓から見つかる。当然、その人間は死んでいて凶悪犯であるとも分かってくる。
 そして、主人公は「奇跡のスナイパー」なんて呼ばれはじめる。

落下」は家族で引っ越してきたマンションで、飛び降り自殺がある。その自殺の日から、夜(9時20分頃)にドーン!という音がし始めて、マンションの廊下とかエレベーターに人の形をした影が現れる。
 このお化け騒動を普段は頼りないお父さんが解決すると言いだす。

 どちらも舞城王太郎らしさもありつつ、短編小説として面白く読めると思う。最初に引用した「代替」はちょっと賛否ありそうな感触があるけれど、興味があれば是非。
 え、こんな展開にすんの? って感じで舞城王太郎の発想と飛躍を存分に楽しめる。

 △月某日

 2月が誕生日だった。
 友達からお祝いの言葉のあと「底抜けの楽しさが待ってますように!」とあって、とくに何も考えずにお礼の返信をした。
 その後に、あ、noteで載せた記事を踏まえた内容だったんだと気づいた(以下の記事です)。

  リアルな友達が僕のnoteを未だに読んでくれているって全然想定していなくて、完全に気を抜いていた。本当に嬉しいです。ありがとうございます!

 他にもカクヨム時代から仲良くしてくださっている方が、ブログ内でお祝いしてくださいっていた。そのブログサイトのアカウントを作っていないため、コメントをつけられず、ありがとうございます! とお伝えしないままになってしまった。
 こんな場所で申し訳ないけれど、読みました! ありがとうございます!

 お祝いをしてもらえるのは本当に嬉しい。
 お返しってどういうことができるか分からないけれど、底抜けに楽しい日々を何かしらの形で伝えたい。と考えると、やっぱり日記かな。

 ちなみに、朝活(と言う名のカフェの仕事)で店長と一緒に入った際、数日後に誕生日というタイミングがあったので、
「店長、驚く話して良いですか?」と言ってみた。
「え、ヤダ」
 否定が早いって。
「そう言わずに」
「なになに?」
「僕、あと数日で32歳なんですよ」
「まじで。え、私と知り合った時ってさとくら何歳だっけ? 22歳くらい?」
「19歳です」
「うわぁ……」
「驚くでしょ? 僕、店長に言われなかったら成人式に行かなかったからですからね」
「あー、一生に一回のイベントだし、行きなさいって言ったんだっけ?」
「ですです」
「年を取るわけだわ」

 改めて考えると十九歳で知り合って、現在三十二歳……。知り合って十三年? 長いなぁ。
 というか、僕と店長の関係性は変わらないなぁ。

 その後、3月の頭あたりに「あ、そういえば、誕生日すぎたね。おめでとう」と突然言われた。
 2月終わりにも一緒に入っていたけれど、完全に忘れていたらしい。良い感じに雑に扱ってくれるのも個人的に謎の嬉しさがある。

 △月某日

 本日、2023年3月13日のツイッターのトレンドに「独身中年男性」が朝から入っているのを見かけた。
 きっかけになったブログは以下になる。

 35歳の男性が「独身中年男性、狂ってきたので今のうちに書き残しておく」と書くのは中々のものがある。
 僕で言うと、あと三年だ。

 ツイッター内で、この記事を読んだ人の感想の中で「狂ってきた」理由は年を重ねたからではなく、鬱の初期症状なのではないのか? と言っている人もいた。

 実際にどうかは分からないけれど、問題は「自分の限界は見えた。独身貴族にはなれない。夢も望みも叶わない。生きる楽しみも無くなった。真っ当に家庭を築いていればそこに拠り所があったんだろうが、そんな物は手に入らなかった。」と書いてしまうとこだろう。
 この人生の限界を把握してしまったような感覚が一番最初に訪れるのが35歳という年齢なのかも知れない。

 ちなみに、35歳問題は東浩紀が「クォンタム・ファミリーズ」という小説で触れている。少々長いけれど、引用する。

 ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをなしげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直説法過去と直説法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。
 そして、その両者のバランスは、おそらく三十五歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。

仮定法過去の総和」が増えていくことは、つまり仮定法未来の総和が減っていくということで、その結果「自分の限界は見えた。独身貴族にはなれない。夢も望みも叶わない。生きる楽しみも無くなった。」となってしまうのかも知れない。


 ちなみに、「クォンタム・ファミリーズ」は2009年に刊行された小説で、著者の東浩紀は2022年にも35歳問題について触れている。
https://www.genron-alpha.com/voice20220104_01/

 その中で、「30代から40代にかけての時期が、総じてなにか人生が閉じたように感じられる年代であることは確かです。そこそこキャリアを積み上げ、自分の限界がわかってくる。着地点の見通しもついてくる。それを安心や安定ととるか、それとも停滞ととるかはひと次第です」とした上で、「おそらくは、安定と挑戦、そのどちらを選択したとしても不満や後悔は残るのだと思います。それが人生というものなのでしょう」と結論を出している。

 如何に残り続ける「不満や後悔」を受け止めて、「生きる楽しみ」を無くしてしまっても生活を続けていくか。
 それが問われて行くのが35歳以降の人生なのかも知れません。僕はあと三年。襟を正して一日一日を生きていきたいと思います。

いいなと思ったら応援しよう!

さとくら
サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。