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日記 2020年5月 とびっきりの幸せが詰まった風船を飛ばす方法を考える。

 5月1日(金)

 朝、ツイッターのトレンドを見ると矢部浩之の名前があった。
 先週の「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン」の放送を受けて、今週は相方の矢部浩之が駆けつけ、公開説教をおこなったらしい、とツイッターを見て知る。
 僕は先週のラジオを聞いていないけれど、今週のラジオは聞こうと思う。冒頭三十分は岡村隆史が謝罪を続けた。その後、相方の矢部浩之が登場して、公開説教をおこなった、という流れだった。

 ツイッターでCDBという方が

 矢部浩之は岡村隆史の高校のサッカー部の後輩なんだけど、岡村隆史は矢部に誘われて芸能界に入った。成功と引き換えに岡村さんは心も病んで仕事も休んだし、矢部はある種の責任を感じてるんだと思う。50を前に差し違える腹で「人生の景色を変えろ」って説教しにくる高校の後輩がいるのは幸運なことだよ

 と言っていて、本当にそうだなぁと思う。

 仕事へ行く間、休憩時間、帰り道で「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン」を聞く。
 もし、僕が間違えた時、誰かが説教してくれるだろうか?
 あるいは、友人が間違えた時、僕はちゃんと説教ができるだろうか?
 そんなことを考える。
 一人の人間ができることは限られている。
 成長する為にも、「人生の景色を変え」る為にも、少なからずの誰かの協力は必要だと思う。

 なんて考えるも、部屋に帰り着いたらへとへとになっていて、パソコンの前に座ることもできず眠った。
 仕事は相変わらず、することが殆どなかった。

 5月2日(土)

 ゴールデンウィーク初日。
 朝の十時前に起きて、お風呂に入って朝食をとって「佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)」を聞きながら、洗濯や掃除をした。
 カクヨムにコメントが届いていたので返信し、更新された他の方の小説やエッセイを読む。
 昼過ぎに買い物へ行くと予想以上に暑くて驚く。業務用スーパーで冷凍食品を中心に購入する。
 部屋に戻って、押し入れから扇風機を出して掃除をした。
 半身浴をして、毎日少しずつ読んでいる舞城王太郎の「ディスコ探偵水曜日」を読む。

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 文庫本で上、中、下があって、今は中の後半。せっかくなので、全部読んでしまう。主人公は迷子専門の米国人探偵ディスコ・ウィンズデイ。
 探偵とある為、一応ミステリーとして謎が提示される。
 その謎は一緒に暮している六歳の山岸梢が突然「十七歳の山岸梢」へと成長する、というもの。その「十七歳の山岸梢」は未来の記憶を持っていて、滞在できる時間は限られている。
 六歳の山岸梢が「十七歳の山岸梢」になるタイミングはランダムで、ディスコ・ウィンズデイはスケッチブックに「十七歳の山岸梢」への手紙を書く。
 そして、「十七歳の山岸梢」がその返答を書くを繰り返し、実際に顔を合わせたりしつつ、ディスコ・ウィンズデイは自分の未来に起こることを知っていく。
 という流れの中で斬新だなぁ、と思ったのは「十七歳の山岸梢」は未来にいる為、ディスコ・ウィンズデイとの手紙は全部残っていること。
 その為、「十七歳の山岸梢」はすでにある手紙の内容を、自分のとディスコ・ウィンズデイのを覚えて、現在に来たらスケッチブックに書いていく。
 つまり、未来に残される手紙の内容は書き移されたでっち上げでしかない。
 これが中巻の終わりで、意味を持ってくるのには痺れた。

 夕方にベッドに倒れ込んで寝た。
 夜に起きて、カクヨムで新しく連載する予定の「木曜日の往復書簡集」のはじめにを書く。

 5月3日(日)

 二日続けての休日に差し掛かって、自分の疲れ具合に気づく。
 ほとんどベッドから出られなかった。
 ミネラルウォーターがなくなりつつあるのに、喉がひどく乾いて仕方がなかった。
 僕は水道水をそのまま飲むのが苦手でホットコーヒーを淹れるのにも、ミネラルウォーターを使う。
 夕方に近所のスーパーへ行って、ミネラルウォーターを買う。
 買い物から帰ってきてもベッドの上でグダグダしていた。

 カクヨムで読んでいた作品が完結していた。
 その方は自分の作品のテーマは「日常」で、日々の小さな幸せを見過ごさずにいたいと思っている、とあとがきに書いていた。
 更に

 今回のような事があるとその「日常」ですら難しいものになってしまい…、余計に「日常」というものが輝いて見える様になりました。
 日常とは決して当たり前のことではないと、分かっていたはずなのに、ガツンとまた思い知らされたような気がしています。

 とも続けていた。
 僕はコメントで「会いたい人に会えない世界で、とびっきり幸せが詰まった風船を飛ばすためには、どうすれば良いんだろう? と最近よく考えます」と書いた。
「良かったら一緒に考えてくれませんか?」とも。

 今回、作品を完結された方は以前に

 私は幼い頃、空想という名の風船をいつも持っていた気がします。
 (現実が寂しかったからですね、きっと)
 それは辛いことではなくて、ふわふわした甘い事ばかり詰まった風船です。

 とエッセイで書かれていた。
 今まさに寂しい現実が世界を包んでいるように思う。
 そんな中で「空想という名の風船」、例えば「とびっきり幸せが詰まった風船」を飛ばす為にはどうすれば良いんだろう? と考える。
 このコメントの返信に「ちなみに、郷倉さんにとってのとびっきりの幸せは何ですか?」と質問を受ける。
 その方は「ちなみに私にとってのとびっきりの幸せは…「セトウツミ」ですかね。笑」とも続けていた。

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 セトウツミは漫画で、映画化やドラマ化もされている。
 高校生二人が放課後に川辺でお喋りをする会話劇だ。
 僕も好きで漫画、映画、ドラマすべて見ていた。
 確かに放課後に友人とあーでもない、こーでもないとお喋りをする日々は「とびっきりの幸せ」と言って差し支えない気がする。
 実際、学生の頃の僕は友人と長い会話をするのが好きだった。
 今の世の中で言うとリモートや電話を駆使して、友人や好きな人と会話をすることが「とびっきり幸せが詰まった風船」に成り得るのだろうか。

 新型コロナウィルスが蔓延する前であれば、好きな場所へ行って、好きな人に会えるのは当然で、だからこそ何でもない日々で見失いがちな幸せを見つけることが、あるいは望めばできるという空想が、風船を膨らませていたように思う。
 けれど、今は何でもない日々ではないし、望んだところでできることは限られている。
 そんな日々だからこそ、本来であればあったはずの「とびっきりの幸せ」を空想すべきなんだと思う。
 自分で言っておいて、明確な言葉にはならなかった。
 もう少し、考えてみたい。
 ただ、「とびっきり幸せが詰まった風船を飛ばすためには、どうすれば良いんだろう?」と尋ねて、一緒に考えてくれる人がいる。
 これはもうすでに、とびっきり幸せなことだ。

 5月4日(月)

 本日も休日。
 やっぱり、ベッドの中でぐずぐずしている。
 そういえば、昨日の日記で書き損ねてしまったが、カクヨムに載せている「あの海に落ちた月に触れる」に2つレビューをいただく。
 普段、滅多にレビューをいただくことはないのだけれど、幸運なことに1日に2つも書いてもらった。
 とくに許可は取っていないけれど、嬉しかったので紹介させてください。

【少年の夏を彩った出会いと別れ、人間関係の変化。赤裸々な独白が秀逸です】

『 主人公は、行人という中学三年生の少年。
 中学最後の夏。夏休みのすぐあと。
 彼と登場人物たちとの間で、会話が交わされ、時にちょっとした夜歩きの冒険を経て、彼の物語が進んでいきます。

 彼を取り巻く、不登校、いじめ、家庭内暴力、病気、性への興味――
 それらはなにげない日常のひとコマとして、少年の目を通して淡々と進んだかと思うと、その時々で立ち止まっては少年の中で彼らしい思考を繰り返します。

 少年の一人称による感情の吐露がとても巧く。
 少年少女の間で交わされる会話はテンポよく、時にコミカルで。
 グイグイと読者の目を惹きつけます。
 少年の、まだ広くはない視野と幼さを残した心情に、気がつくとどっぷりとはまっていきます。
 この筆力の高さ。
 恋愛もの・現代ドラマを書かれている方にはかなり参考になると思います。

 ラストでわかる、タイトルの意味がとても素敵でした。 』

 黒須友香さん、本当にありがとうございました。


【僕らの未来予想図を、MR2の旋律に乗せて……】

『 ※過度なネタバレは控えているつもりですが、できることなら未読の方には先に本作を読んで頂きたい。

 幼いころから兄の暴力に苦しみ、自分を抑えて日々を過ごしてきた主人公、矢山行人。
 自分の欲しいものすら口に出せず、意思を形に出来ず、ただただ兄のされるがままに屈していた幼少期。それにより、彼は歯を折られるほどの痛手を強いられたが、それ以上に心に負った傷は甚大なものだった。

 普通の子どもなら、早くに心折られて再起不能になっていてもおかしくはないだろう。
 しかし、その絶望と向き合えるだけの希望を、彼はまた享受していた。
 幼馴染の秋穂。彼をここまで繋ぎ止めてきたのは、彼女という存在があったからこそだ。自分では釣り合わないと行人自身も感じるほど、秋穂は花も実もある女性だった。

 行人と秋穂。互いに揺るぎない信頼と愛情を携えていながらも、彼の気持ちは揺れ動いていた。中学三年生、多感な青春期。感情の揺れ動きや迷いが生じるのは当然と思われるが、行人のそれは今後の人生を左右するほどのものであったのだと思う。

 これまで心身に多大な傷を蓄積してきた彼は、中学三年生になった今も、変わらず自身の意見や欲しいものすらはっきりと主張できず、意思を顕在化できない少年だった。 
 それは、行人の兄の彼女である美紀の「君の言葉には、いつも重さがないよね」「実感のない言葉をぽんぽん投げているような気がする」といった台詞からも感じられるだろう。
 兄にされるがままに屈してきたことでいつの間にか失ってしまった個性やプライド。それが彼の自信を蝕み、この先自分がどう生きてゆけば良いのか判断できなくさせたのだろう。

 本作は彼の“自分探しの旅”のようなものだったのではないかと、読み終えてから感じた。
 彼がどういう答えにたどり着いたのか、それはぜひ自分の眼で確かめて頂きたい。

 一人の少年の迷い・苦悩・葛藤。それらを繊細に、かつ赤裸々に描き出した秀作だ。

 ちなみに、私の気に入りの登場人物は陽子。 』

 サンダルウッドさん、本当にありがとうございました。


 夕方近くに少し気分が戻ってきたので、スーパーへ買い物に行く。僕は大阪に住んでいるのだけれど、それをネタにタコ焼き器をもらう機会が三回あった。
 つまり、タコ焼きの鉄板が僕の部屋には三つある。
 二つは未使用。一つは一度だけ使った。
 せっかくなので、タコ焼き器を使ってみようとスーパーへ行くもタコ焼き粉が売り切れでビックリする。みんな家族などで作っているのだろうか。
 仕方なく、肉を大量に買って一人焼肉をした(タコ焼き器の一つに鉄板を平面プレートに変えられるものがあった)。

 さて、引き続き「とびっきり幸せが詰まった風船」について考える。
 僕がおこがましくも、「一緒に考えてください」と伝えた方が【とびっきりの幸せが詰まった風船を飛ばす方法】という文章を書いてくださっていた。
 この内容が凄く良かった。
 マーク・トウェインの『自分を励ます最上の方法。それは他の誰かを励まそうと努力すること』という言葉を引用し、「自分の大切な人の幸せを考えること」がとびっきりの幸せが詰まった風船を飛ばせる方法になるんじゃないかな、と結論を書かれていた。

 なるほど、その通りだと思った。
 大切な人の幸せを考える。
 それは間違いなく「とびっきり幸せ」なことだ。
 同時に思ったのは、僕は例えば今回、質問した方から小説や音楽を勧められて、それを読んだり、聴いたりすることも幸せな体験だった。
 読みました、聴きました、と報告するのも楽しかった。
 逆に僕が勧めた小説や映画を読んだり、見たりして下さると、それこそ「とびっきり幸せ」な気持ちになれた。

 ふむ。
 この会いたい人に会えない世界で、とびっきり幸せが詰まった風船を飛ばす方法として、「自分の大切な人の幸せを考え」その人が勧めている作品を見たり、その人に勧める作品を探したりする。
 それは会えないからこそできる幸せな時間の過ごし方に思える。

 幸い僕の部屋には大量の本があるので、しばらく人に勧められるような読書もしたいと思う。
 二日前の日記で書いた「ディスコ探偵水曜日」とかは、全然人に勧められない作品だけれど。

 5月5日(火)

 そういえば、数日前に母親からマスクが三十枚くらい届いた。
 政府で配ると言う二枚の布マスクは届いていないけれど、母のマスクは届いたんだなぁ、と思う。
 本当に有難い。
 そして、今日の5月5日が母親の誕生日だったので、おめでとうのLINEを送る。
 昼過ぎに塩こんぶと卵のトーストを作る。美味しい。

 ちょっと調子に乗って昼からハイネケンを飲む。ゴールデンウィーク中の隙間で見ようと思っていた「BANANA FISH」を流す。

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 原作者の吉田秋生の作品は幾つか読んでいて、EDテーマががKing Gnu「Prayer X」だと言うことだったので、好みだろうと勝手に思っていた。
 実際、すごく面白い。
 まだ途中だけれど、いろいろ浮かんだことがあったので、少し書く。

「21世紀文学の創造⑦ 男女という制度」という本の中で横川寿美子[ポスト「少女小説」の現在 女の子は男の子に何を求めているのか」に以下のような文章がある。

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「ボーイズラブ」系の話が女の子に好まれるのは〈同性愛志向を持った美貌の男の子は、物語の主人公として、場合によっては女の子以上に、女の子の抱えている「居場所のない思い」とそこからの救済の方向性を、鮮明に表現できるから〉ということになるかと思う。
 ここで言う、女の子の抱えている「居場所のない思い」とは個々人が抱える個別の問題ではなく、日本で暮らす多くの女性たちが、たまたま女によって生まれたことよって被るさまざまな疎外のことである。特に一〇代の切実な思いとしては、常に周囲から性的存在として客観視されながら、自らが性的主体として行動することは禁じられるという、性の二重基準に身をさらされている割り切れなさがある。その点、美貌の男の子は、一方では女の子と同じように周囲から性的視線を浴びながらも、一方では自らも欲情する主体であることを許される存在である。同時に男の子の身体というものは、女の子が抱える「居場所のない思い」を注ぎ込む器としての容量がとても大きい。

 まさに「BANANA FISH」のアッシュという男の子は、女の子が抱える「居場所のない思い」を注ぎ込まれた器として存在しているように見えた。

 昼過ぎにベッドで眠る。
 ゴールデンウィーク中、僕は寝てばかりいる。単純に朝と夜は寒いのに、昼は暑いという気温変化に身体がついていってないのだろう。
 4日に緊急事態宣言が正式に延長された。
 改めて、心に刻みたいのは東浩紀のツイッターでの言葉だった。

 ぼくがいま必要だと思うのは「人間にはできないことがある」と冷静に指摘する言論人です。いまは右も左も理系も文系も「打ち勝とう」しかいわない。そしてどんどん社会が壊れていく。どうせ勝てないのなら、負け戦のんかあで社会を守ることを考えるべきです。
 我慢が少ないから日常が戻ってこないのではない。そもそも日常は長く戻ってこない。それを前提に社会生活を立て直すのが合理的です。出口戦略なくもっと我慢しろ、もっと我慢しろとばかり言い続けている人の話は信用できない。

 日常は長く戻ってこない。
 その日常が戻ってくるまで、台風の日に部屋の中から台風の様子を観察するような日記を書きたいと思う。
 とは言っても、ニュースで放送されているようなことに僕はあまり興味を持っていないけれど。
 とりあえず、5月5日のこどもの日が母の誕生日で、それは僕にとって凄くおめでたい日であることは間違いない。

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さとくら
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