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身体について語るとき、村田沙耶香の生きる物語を知る。

 村田沙耶香という小説家を知ったのは、第26回三島由紀夫賞を「しろいろの街の、その骨の体温の」で受賞した頃なので、2013年くらいだと記憶しています。

 当時から村田沙耶香は「あらゆる人が抱える性的な違和感や、社会という大きな化け物の中で生きなければならない苦しみ」を描いていると評価されていて、それは今も一貫しているように思えます。
 と言っても、僕は村田沙耶香の熱狂的なファンという訳ではなく、文芸誌を買い続けている中で、よく見かける名前だなと思っている程度でした。

 そんな中で、朝井リョウ・加藤千恵のオールナイトニッポン0(ZERO)に村田沙耶香がゲストで登場し、実際の声を聞く機会がありました。
 ラジオの中で、村田沙耶香は「クレイジー沙耶香」と呼ばれており、なるほどと納得できるエピソードも紹介されていました。

 僕は朝井リョウと加藤千恵のラジオが好きだったので、素直に「クレイジー沙耶香」なんだなぁと思っていたのですが、後にインタビューなどで、村田沙耶香は「クレイジー沙耶香」と呼ばれることに対して先輩作家に苦言を呈された、と明かしていました。
 その当時、僕は村田沙耶香が「クレイジー沙耶香」と呼ばれることの意味(先輩作家が苦言を呈した意味)が、よく分かっていませんでした。

 俳優やアーティストが新しい映画や曲を出した際、プロモーションとして色んな番組に出て、その人物の人柄(キャラクター)によって人気になったり、作品が売れることはよく見かけます。
 俳優やアーティストがそうなのだから、小説家が人柄を明かして、人気者になって作品を売っていく、という流れはあっても良いのではないか、と当時(2015年頃)の僕は思っていました。

 実際、羽田圭介は芥川賞を受賞後にメディアに登場し、そのキャラクター性で人気になり幾つかの番組を担当しました。ある種の小説家にとって、それは決して悪い選択肢ではない、ということは理解しています。
 その上で、村田沙耶香にのみスポットライトを当てるのなら、彼女の作品を読む上で「クレイジー沙耶香」なる異名は邪魔でしかありません。

 根本的な話として、小説家は作品を通して他人に何かを伝える職業で、作品外の情報によって余計なものが伝わることは結果的に作品を濁してしまう場合があります。

 改めて、そう感じたきっかけは文學界(2021年4月号)のリレーエッセイ「私の身体を生きる」の村田沙耶香の回でした。この内容は本当に素晴しいんですが、読者側が村田沙耶香を茶化すような穿った気持ちで読むと、核心がまったく伝わらない危ういテーマを扱っていたんです。

私の身体を生きる」のエッセイよりも前に、まずは村田沙耶香はどういうテーマ、小説を書くのか、ということを紹介したいと思います。
 それを端的に表していたのは、新潮(2018年10月号)にて西加奈子と対談した「人間の外側」なので、こちらより引用をさせてください。

西 (沙耶香の小説は)人間をひたすら解体していった結果こうなったという意味では、実は淡々と書かれた作品なんだと思います。普通こういう小説を書く作家なら、具体的な何かに批判的なのだろうという考えが働くものだけど、作中に沙耶香の「こんなことをしてはいけない」という叫びはひとつもないんだよね。
 中略
 そこに下手にメッセージ性を求めてしまうと、それは常識の範囲内での読み方しかできないことになるわけだから、読者の側も問われますよね。

 つまり、「クレイジー沙耶香」呼びは、村田沙耶香を茶化すことで作品を「常識の範囲内」に押し込めようとする行為になってしまうんです(朝井リョウ、加藤千恵にそういった意図があった訳ではないでしょう)。

 クレイジーとは、「気が狂っている」「狂気じみている」という意味で使われます。狂っている小説家が書いた作品だから、こういう小説なんだ、という視点は「人間をひたすら解体して」いこうとする村田沙耶香の作風にはそぐわないどころか、小説の深みへと沈む為の妨げになってしまいます。

 ちなみに、同じ対談の中で村田沙耶香は彼女の作品の根底をよく表しているエピソードを一つ明かしています。引用させてください。

 実は生まれて初めてゴキブリを見たときには黒々としたきれいな虫だなと思ったんだよね。なのに、普段はどっしりしている父と兄が、それを「わっ、出たぞ!」と汚らしいものとして殺しているのを見て、次に見たときには私も気持ち悪いと思ってしまった。

 何も知らない目で見れば、ゴキブリは「黒々としたきれいな虫」で、僕もカブトムシやクワガタとどう違うのか、よく分からないな、と幼少期には首を捻っていました。
 けれど、父や母が大騒ぎしながら殺している姿を見て、それに倣って振る舞っている内に僕もゴキブリを「気持ち悪い」と思うようになりました。
 今では素手で触れる、ということを想像するだけで鳥肌が立ちます。

 村田沙耶香は「調べたらゴキブリを食べる国もあるみたいで、私もそこで生まれていたら好物だったかもしれないし」と続けて語っているのですが、その可能性は否定できない以上、僕たちの感覚は周囲の人間に倣った、あるいは社会が決めた基準によって決められていて、実は自分が考えて獲得したのは僅かかも知れません。

 それが良いとか悪いとかっていう話では全然なくて、人間とはそういう部分を持っているんだ、ということなんですよね。

 さて、そんな「人間をひたすら解体して」いく村田沙耶香ですが、今月号の文學界(2021年4月号)の「私の身体を生きる」で「肉体が観た奇跡」というエッセイを書いていました。
私の身体を生きる」はリレーエッセイで前回(第一回)は島本理生が書いており、その内容も素晴しいものでした。

 この素晴しいは共感できたとか、正しいとか、そういうことではないんです。島本理生が「私の身体を生きる」で書いたことは社会において、あるいは、これから僕たちが生きていく上で、絶対に大切になってくる、という意味で素晴しい内容だと思ったんです。

 そして、それは村田沙耶香が「私の身体を生きる」で書いたことも同様でした。
 テーマは自慰行為について。
 僕は男性で、女性のそういう行為について文章で読んだ経験も殆どなく、それに対してどういう反応すべきなのかも、まったく分かりません。
 ただ、どう反応すれば良いか分からないけれど、目を背けずにはいたいと思って今回のエッセイを書き進めてきました。
 ここまできて、答えはとくに出ません。

 今あえて言うとすれば、「私の身体を生きる」で村田沙耶香が書いた内容は格好良いということです。
 曝け出す美学というより、彼女は生きる上で考えてきたことを素直に書こうとして、それが世間的に戸惑わせることを理解しつつ、避けずにセクシャルな内容を書いた。

 エッセイの中でも幾度となく世間とのズレや戸惑いが描かれてもいて、それをそのまま書いてしまう覚悟のようなものに、僕は格好良さを感じずにはいられないんです。
 この格好良さは実は読んでいただかなければ、伝わない部分でもあるので、機会があれば文學界の4月号を手に取ってみていただければ幸いです。

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さとくら
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