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【小説】あの海に落ちた月に触れる②「寝た後なら、キスくらいして良いよ」
言い訳だけれど、僕は夏休みの宿題を終わらせるつもりだった。その証拠に夏休みの間、過ごした親戚の家にも宿題は持って行っていた。
ただ親戚の家でお世話になっている間に起きた出来事のおかげで、宿題をする時間がなくなってしまった。毎日、走り回ったあげく、気づけば帰る日の前日なんていう状態だった。
更に僕は夏休みの宿題を丸ごと親戚の家に忘れて帰ってしまった。誰かに写してもらおうにも、その宿題がないのでは仕方がなかった。
送り返してもらうのにも時間が掛かり、夏休みが終わって三日が経った本日の朝、宿題はほとんど真っ白な状態で僕の手元に戻ってきた。
絶望とは、こういうことを言うのかも知れない。
陽子の提案で宿題は今日から取り掛かることになった。
問題は場所だった。
僕の家でどうかな、と誘って良いものか考えていると「ぼくの家で、やるのはどうだい?」と陽子が言った。
「陽子が良いのなら、もちろん嬉しいけど、良いの?」
「何を言っているんだい? 良いから誘っているんだよ」
それはそうだ。
「なんだい? やっぱりエッチなことがしたいのかい?」
「そーいう訳じゃないよ」
「じゃあ、良いじゃないか。健全に夏休みの宿題をしようじゃないか」
「そうだね」
「ちなみに夏休みの宿題は今、持っているのかい?」
「いや、家にある」
「なら宿題を取りに帰っている間に、ぼくは家に帰って少し準備をさせてもらおうかな」
「ん、ムダ毛の処理?」
僕の軽口に陽子が不快になるのが分かった。
「良いんだよ、ぼくは別に行人くんの宿題を手伝わなくても」
「すみませんでした!」
「はぁ」
と陽子はため息を漏らした。「で、行人くん。ぼくの家、知っていたかな?」
「知らないよ」
「ふむ。ここから近くなんだけど、少し分かりにくい所だからね。じゃあ、ローソンは分かるかい?」
「パチンコ屋の向かいの?」
「そうそう。そこに三十分後で、どうだい?」
「いいけど。普通に携帯の番号を教えてもらうじゃダメなの?」
「ぼくは優等生だからね。学校に携帯を持って行っていないんだよ」
空き地とはいえ、学校の制服で煙草を吸っているくせに何を言っているんだろう。と思ったけれど余計なことは言わず、陽子とその場で別れた。
○
家に帰ると、玄関に見かけない女性ものの靴が綺麗に揃えられていた。
その横に兄貴の汚いスニーカーが脱ぎ捨てられてあった。兄貴の彼女が来ているみたいだった。
時間は十八時を少し過ぎた頃だ。そろそろ両親が帰ってくるはずだった。
僕はできるだけ足音を殺して廊下を進んだ。
二階への階段に足をかけたところで、兄貴に名前を呼ばれた。どうやら兄貴たちはリビングにいるらしかった。
舌打ちしたい気持ちで、リビングに行くとソファーに座った兄貴が僕を見た。
「帰ってきたなら、挨拶ぐらいしろよ」
「こっちにいるとは思わなかったんだよ。ただいま、兄貴。あと、いらっしゃい美紀さん。ゆっくりしていってください」
兄貴の向かいのソファーに座った美紀さんが、にっこりとほほ笑んだ。
相変わらず、嫌味ない完璧な笑みだった。
「おかえり。ねぇ、行人くんもこっちで一緒しない?」
「おい」
兄貴が咎める声を出すも、美紀さんは涼しい表情だった。力関係は明白だ。
「何をされているんですか?」
一応、聞いてみた。
「勉強だよ」
ガラスのテーブルにはこれ見よがしに幾つものテキストとノートが並べられていた。
「学校でしているので、遠慮しておきます」
「行人くんが、こっちに来てくれるなら他のことをするよ」
一瞬、美紀さんと兄貴に宿題の件を頼むのも良いかも知れない、と思ったが、すぐにそんな考えは霧散した。兄貴と小一時間でも同じ空間にいる、というだけで今晩うまく寝つける気がしなかった。
「これから友人の家へ行くので、また誘ってください」
「へぇ」
と、やや大げさに美紀さんは言った。
「こんな時間から? 残念。ちなみに、そのお友達は、男の子? 女の子?」
「女の子ですけど」
「へぇ」
感心したように美紀さんは言って、ソファーから立ち上がった。兄貴の座っているソファーを横切って、僕の前に来た。
僕は美紀さんの目を見詰めた。長い睫だなぁ。
美紀さんが僕の頭をくしゃりと撫でた。
「もう少し成長したら、私のことも相手してね」
「おい、美紀っ」
兄貴が腹立たし気に言った。
美紀さんは僕の頭から手を離して
「冗談よ、冗談。すぐにやきもち焼くんだから」と余裕たっぷりに言った。
僕は頭を下げてリビングを後にした。二階の自分の部屋で服を着替えた。僕は美紀さんが苦手だった。
長い睫、丁寧な仕草、少し勿体つけたような喋り方……。
美紀さんは万人に愛される方法を知っている。
そして、誰よりもその技術を洗練させている。
美紀さんは会話の中で言葉に詰まったり、言いよどむことはないだろう。それを羨ましいと思う反面、あまり好ましく思っていない自分もいた。
僕は美紀さんよりも、外では下手な男口調になる陽子の方を好ましく思った。
夏休みのテキストをバッグに詰め込み、僕は両親にメールで友達に行くことを伝えて家を出た。
兄貴と美紀さんに挨拶はしなかった。
○
ローソンで表紙がよれよれになったジャンプを立ち読みしていると、眼鏡をかけた陽子に肩を叩かれた。
「面白いのかい?」
「そこそこ?」
「どうして疑問形なんだい」
ローソンを出ると、向かいのパチンコ店から出て来る人影に見覚えがあった。
僕は無視しようとしたが、陽子が反応した。
「あれ、宮本くんじゃないかい?」
「だね」
とだけ僕は言った。
「あぁすまない。君と宮本くんは……」
陽子は申し訳なさそうに視線を逸らした。
仕方なく僕はへらへらと笑った。
「僕とミヤは別に仲が悪い訳じゃないよ。良い奴だしね」
「ぼくは宮本くんと喋ったことはないけれど、見る限り良い人だって分かる」
ミヤはサッカー部に所属した、クラスの人気者だった。
そんなミヤは中学三年にあがった春に不登校になった。後から聞いた話だけれど、サッカー部内でミヤはひどいイジメにあっていたらしい。
不登校になってすぐに彼の家を訪ねたが、一言も声を発さなかった。ミヤの家に通う日々を送っても結果は変わらなかった。ただ一度、手紙をもらった。
――気にすんな。
たった一文だった。
けれど、そう言うのなら僕は気にせず、時が経ってミヤ自身から話してくれるのを待とうと思った。
それは半年が経とうとしている今でも変わらなかった。
「それで、どうして陽子は眼鏡なんだ? しかも髪先、三つ編みにしているね」
コンビニを出て陽子の家までの道を僕らは歩いていた。外灯の光は既に灯っていた。
「お、今更だね。文学少女風さ」
「文学少女風?」
「ただ宿題をするのも芸がないからね、形だけでも凝らそうかなと思ったんだよ」
よく分からなかったが、陽子のいつもの中二病的行動なのは分かった。
入り組んだ路地を抜けた先のマンションが陽子の家だった。
六階という、そのマンションを見上げると、真ん丸な月が目に入った。
夜の訪れはいつも言いようのない不安を感じさせた。世界の輪郭が曖昧になって、大切なものを見落としてしまうかも知れない。
そういう漠然とした感覚だった。
「本当に、陽子の家で宿題やっても良いの? ご両親とかもいるだろ?」
「ん? あぁ、大丈夫だよ。君は気にしなくていい」
そういう訳にはいかないだろう、と思ったが口にはしなかった。
陽子の住む部屋は六○七号室だった。
綺麗な室内のエレベーターで六階まであがると、暗がりの中で先ほどのパチンコ店が確認できた。他にも見慣れた駄菓子屋や、通っていた小学校、散歩コースとなっている湖、壁のように町を囲む山もかろうじて見えた。
「どうしたんだい?」
「いや、いろんなものが見えるな、と思って」
「そうかな?」
ガチャ、と陽子が扉の鍵を開ける音がした。
目の前の光景は陽子にとって日常なのだろう。見えるのが当然の光景。住む場所が違えば、見え方も感じ方も変わってくる。僕と陽子はまったく違う生き物だ。
「では、どうぞ我が家へ」
陽子の家の玄関は、きとんと整えられ掃除も行き届いていた。陽子は、ただいまとは言わなかった。僕はおじゃましますと言って靴を脱いだ。
陽子の案内で通された部屋には二段ベッドと勉強机が二つ、ガラステーブルが一つと本棚で殆どの面積をとっていた。床には淡いピンク色のマットが敷かれていて、それがいかにも女の子の部屋という趣だった。
「お姉さんか、妹さんがいるの?」
「妹がいるんだ」
「へぇ、今日は塾かなにか?」
「今は家にいないんだ」
自然とした発音だった。
「なんで?」
「ホームステイ中なんだよ」
「なるほど。どこに?」
「アメリカだよ」
「へぇ、良いね」
「でも、言葉が通じないって、よく泣き言のメールをもらうよ」
「あーそれは、辛そう」
周囲で聞こえる言葉が雑音としか捉えられない世界。
それは想像に難くない辛さだった。
「ひとまず行人くん。宿題を見せてもらおうか、流石にまったく手つかずという訳ではないんだろう?」
「それがね」
僕は鞄から宿題を取り出した。理科のテキストの最初の数ページが終わっているだけで、他は全て手つかずだった。
陽子はそれを見て、ため息を漏らした。
「時間が掛かりそうだね」
面目ない。
○
陽子は夏休みの宿題で出されたテキストの答えを殆ど覚えているようだった。
迷いのないスピードでシャーペンを走らせていく陽子を横目に、僕は読書感想文や日記などの、個人的なテキストから取り掛かった。
二十時をまわっても、陽子の両親は帰ってこなかった。不思議に思ったが、他人の家の事情を気安く訊ねるほどに僕は鈍感になれなかった。
陽子が一度、立ち上がった。
「夕食、作ってくるから。行人くんはそのまま続けていてくれよ」
部屋から出ていく陽子を見送り、僕の中の不思議さは不安へと移り変わった。
陽子が作ってくれたのは海老とイカの入ったクリームパスタだった。リビングの四人掛けのテーブルで僕と陽子は差し向かいでパスタを食べた。
テレビやコンポなどの音はない中の食事だったが、とくに気まずくはなかった。
「陽子って料理、上手いのな」
僕は素直に感心した。
「そうかな? 普通だと思うけどね。ちなみに、言うことはそれだけかい?」
「将来は料理人になれると思う」
「お嫁さんではないんだね」
「料理ができなくても、陽子は良い奥さんになるとは思ってるよ」
これも素直な気持ちだった。
「ほぉ、それは意外だね」
「そう?」
「空き地でこっそり煙草を吸うような女だよ?」
「堂々と吸うよりずっと良い」
「こんな喋り方なのにかい?」
「慣れると、むしろそそる」
陽子の食べる手が止まる。
「んー、それは素直に喜べないなぁ」
食事を終えると、陽子はミルクたっぷりのホットコーヒーを淹れてくれた。陽子が食器を洗い、僕はコーヒーを飲んだ。それから陽子と妹さんの部屋に戻って、僕らは宿題の続きをした。
二十二時を過ぎた頃、半分が終わった。
そろそろ帰ろうかな、
と僕は言った。
「ふむ」
陽子が少し考え込むような顔をした。「せっかく、ここまで終わったんだ。行人くんに用事がないようだったら、今日で最後までやってしまおう。なんなら泊まって行ってくれても構わない。今日は父も母も帰ってこないようだし」
とん、っと誰かに背を押されたような気持ちに僕はなった。自分の中にある物差しから外れた、そんな感覚だった。そういう瞬間、僕は悲しくなって泣きたくなる。
けれど、今はあえてへらへらと笑った。
「なに? 誘ってんの?」
「そういう根性もないくせに」
「いやいや、男の子の夜は狼だからね」
「言い方が古い」
「それで、両親が帰ってこない日は珍しいの?」
「ん、うちではよくあることだよ」
陽子は変わらず宿題のテキストに向かってシャーペンを走らせていた。
「両方とも?」
「ああ。時々、母だけ帰ってきたり。父だけだったり、日によるね」
「事前に連絡はないの?」
「ある時もあるけどね」
今日はないようだ、と陽子は何でもないように言った。
中学三年の娘に一言も伝えずに両親が共々外泊する。
陽子の口ぶりだと、理由はどちらも違うようだ。夕食の準備もなければ、戸締りの確認もない。これがまともだと僕には思えなかった。
けれど、それは僕の持つ物差しだ。
陽子を僕の物差しだけで測るのには躊躇があった。もしかすると、僕が間違っている可能性だって十分に有り得る。
二十五時を回る少し前に僕の夏休みの宿題は終わった。
ため息とも、吐息ともつかない声を漏らして僕は淡いピンク色のマットに背中を預けた。ペンの握りすぎで、中指の爪の横が膨れて痛かった。
「お疲れ様」
陽子が言い、深い吐息を漏らした。
「ありがとう。ちゃんとお礼する」
「ああ、『お願い』、ちゃんと聞いてくれよ」
「うん」
「でも、その前に、オマケを貰っていいかな?」
「おまけ?」
陽子は僕の問いには答えず、かけていた眼鏡を外し、三つ編みにしていた髪をほどいて、倒れた僕の顔の横に手をついた。少しだけ開いた口から白い歯が浮かんでいた。
「ねぇ、これから“わたし”がすること。お願いだから、勘違いしないでね」
陽子がわたしと言った。僕はぼんやりとした頭で「うん、勘違いしない」と答えた。陽子の長い髪の先っぽが僕の顔に触れた。
「怖い夢を見るの」
僕の顔に幾つかの髪の束がかかる形で、陽子は僕に抱きついた。彼女の吐息が僕の首筋にかかった。
「だから、私が眠るまで傍にいて」
「いつも夜は一人なの?」
「そうだよ」
「眠ったら、ちゃんと布団をかけるよ」
「ありがとう。寝た後なら、キスくらいして良いよ」
「根性なしだから、やめとく」
「まったく」
「おやすみ、陽子」
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