【長編小説】西日の中でワルツを踊れ① 重みを失った缶コーヒーのように。
缶コーヒーは既に空だった。
座っているベンチから十歩ほどの距離にゴミ箱があった。
缶を入れようと腕を振り上げた。
「ねぇ、あのお兄さんが投げる缶がゴミ箱に入ったら、あたしたち恋人になりましょうよ」
後ろから女の子の声がした。
ベンチは一本の木を囲うように作られている。声の主はおそらくぼくの後ろに座っているのだろう。
「どうして?」
今度は男の子の声が聞こえた。
少々戸惑った響きがあった。
「好きな男女が一緒にいるなら恋人になるべきよ」
「僕たちはまだ十歳だし、恋人ってよく分からないよ」
「大丈夫。あたしの友達は恋人が三人いるわ」
「全然、大丈夫じゃないよ」
「なによ、有? あたしのこと嫌いなのかしら?」
「よく分からないよ」
「分からないことは、恋人になってから知っていけば良いのよ」
「そういうもんなのかな?」
「何にしても、お兄さんの缶がゴミ箱に入るかどうかよ。入ったら、それが運命なのよ」
運命。
空っぽの缶コーヒーが数メートル先のゴミ箱に入るかが、幼い男女の運命になってしまった。
空の缶コーヒーを妙に重く感じる。
ぼくは出来るだけ自然な動きで缶を放った。
それを後ろの二人が注目しているのは振り返らなくても分かった。
缶はゴミ箱の手前で落ちた。
間抜けな音の後、缶はコロコロと地面を転がった。
ぼくはわざとらしくも溜息をつき、ベンチを立った。
後ろから男の子のほっとする吐息と、女の子の苛立たしげな舌打ちが聞こえた。
缶を拾ってゴミ箱に捨て、公園の散歩道を進んだ。
待ち合わせの為に公園を訪れたが、何もベンチに座って待つ必要はなかった。
公園の入り口に居れば相手も分かるだろう。
そう思った矢先、声を掛けられた。
「ナツキさん。お待たせいたしました」
ぼくは柔らかい笑みを心掛けた。
「いえ、紗雪さん」
紗雪と会うのは今日で二度目だった。今回も紺色のスーツ姿だった。動きやすそうなパンツスタイルのスーツは彼女によく似合っていた。
顔立ちが幼い紗雪はぱっと見ると新卒の社会人という印象を持つ。
それは二度目でも変わらなかった。
「そういえば、私が買った服を着てくれているんですね。サイズ、大丈夫でしたか?」
並んで歩き出してから紗雪が言った。
「ぴったりでした。病院を出る時、ナースさんに似合っているって言われましたよ」
「良かったです」
ぼくの姿は、黒のジーパンに灰色のティシャツだった。
現在、ぼくは一文無しで槻本病院に入院している。
一文無しとは本来お金がないことを言うが、ぼくは保険証や帰る家さえ持ち合わせていなかった。
結果、ぼくの治療費と入院費は電卓を出鱈目に叩いたような値段に膨れ上がった。途方に暮れた頃、ぼくに連絡をくれたのが紗雪だった。
彼女はぼくに協力してほしいと言った。
ぼくが出来ることなら、何だってするつもりだった。
しかし、それ以前の問題があった。
一つに、ぼくがまだ入院する必要があったこと。
二つに、治療費を払う伝手がないことだった。
紗雪はぼくの現状を知り、その場で治療費を全て肩代わりすると言ってくれた。
退院に掛かる費用と、外へ出かけられる服と靴。下着に靴下。鞄に財布までも、ネット通販で購入し、病院に届くよう手配してくれた。
その時点で、紗雪が外見通りの社会人ではないとぼくは理解していた。
「ナツキさんが協力してくれるなら、全然安いものですよ」
と、初めて会った日に言われた。
ぼくにそんな価値があるとは思えなかったが、感謝の言葉を絞り出す他に何も言えなかった。紗雪は「また来ます」と笑みを浮かべて、現金の入った封筒を置いて行った。
少し怖いと思った。
もちろん、彼女はぼくに価値を見出しているからこそ、お金を払ったのだ。
理由あっての行動だ。
そして、その価値とは紗雪が知らないことを、ぼくが知っている――かも知れない、という一点だった。
「これから町を歩くんですよね?」
と、ぼくは言わなくても良いような確認をした。
「そうです。町の名前は岩田屋町と言います」
「同室の人から聞きました」
紗雪は静かな笑みをぼくに向けた。
リハビリに励む病人へ向けるような眼差しだった。
実際、それは正しい。
「少し、話を整理しても良いですか?」
「もちろんです」
紗雪の了承を得てから、ぼくは何も考えていなかったことに気がついた。
公園を抜けて道路に出た。
錆びついたガードレールに沿ってぼくらは歩いた。
真っ直ぐ進めば駅に到着するはずだった。
赤い自動販売機を通り過ぎたところで、ぼくは口を開いた。
「紗雪さんは行方不明の兄を探しているんですよね?」
「そうです。川田元幸、それが兄の名前です」
川田元幸。
紗雪と初めて会った日も聞いた名前だったが、聞き覚えはなかった。
「彼の行方をぼくが知っていると聞いた訳ですね?」
「はい。父から兄の行方は西野ナツキが知っていると聞き、電話番号を教えてもらいました」
「でも、電話したぼくは記憶を失っていた」
紗雪はすぐには頷かなかった。
何かを探るように彼女はぼくの横顔を見た。
疑いたくなる気持ちは分かる。けれど、どれだけ探ったところでぼくの中が空っぽであることは変わらない。
あの空の缶コーヒーのように。
記憶という中身はすべて流れていってしまった。
残ったのは重みを失った外側だけだ。
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