ある時、狂気は人を救い、涙を流していい場所にしてくれる。河野多恵子「秘事」について。
人生の中でもっとも涙を流した小説はなんだろう?
そう考えてみると河野多恵子の「秘事・半所有者」だった。
二十三歳の頃にスーツを着たいという理由だけではじめた、高校生を対象にした大学や専門学校の説明会の補助スタッフのアルバイト。
そのイベントの帰り、終電の新幹線の自由席で僕は「秘事」を読んだ。
岡山から大阪への帰りの新幹線で、終電だったこともあり周囲には誰も座っていなかった。
それを良いことに僕はとめどなく流れる涙を放って、「秘事」を読み進めた。
当時の僕は友人に文学好きが多かった。
その為、読んだ小説に関しては詳細な感想を伝えていたのだけれど、河野多恵子の「秘事」に関しては何も言えなかった。
ただ、しばらくは「秘事」を開いて、後半の数ページを読むだけで泣いた。
二十三歳の僕にとって「秘事」は人生とか愛とかの全てが詰め込まれた本で、涙に暮れてもいい場所だった。
そんな「秘事」のあらすじを説明するなら、解説で書かれている「絵に描いたように幸福な夫婦、幸福な家庭の小説だ」になる。
更に解説では「相思相愛が信じられないくらい長続きして、会社でも「大恋愛」のみごとな夫婦として羨望されている家庭生活。二人の息子もそれぞれ一廉(ひとかど)の社会人となり、四人の孫が元気に育っていることもむろん幸福の大事な要件である」と続いている。
その通りの物語だ。
しかし、トルストイの『アンナ・カレーニナ 第1編』で「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」を当て嵌めるのなら、「秘事」の三村夫妻は「不幸な夫婦」だったことになる。
その「不幸な夫婦」たらしめたのは、文庫本の後ろに書かれたあらすじから引用するなら「この結婚にはある事故が介在していた。」ということになる。
ある事故により、主人公、三村清太郎はタイトルの通りの「秘事」――一つの秘密を、妻、麻子に対して抱え、それを誤解なく打ち明ける術を失い、魂を削るように自らの想いを隠し続ける他なくなってしまった。
しかし、それ故に三村夫妻は周囲から羨望される幸福な家庭であり得たとも言うことができる。
「不幸な夫婦」である為に、「幸福な家族」であり続けられたのだとしたら、それは夫である三村清太郎にとっては「不幸な家庭」だった。
ちなみに、山田詠美と河野多恵子の対談集「文学問答」で山田詠美は「秘事」を以下のように語っている。
山田 「秘事」はその意味で、小説をシンプルにしていった極致という感じがします。本当にシンプルな文章で、別に大きな事件が起きるわけでもないのに、ドラマティックなんですよね。
中略
特に最後がすごく良かったです。普通もっと泣かせに走るんじゃないかと私なんか思っちゃうところが、抑えられていて。
そう最後の最後まで「秘事」は抑えられている。
文体の意味でも、物語としても。
三村清太郎は最後のその時まで、秘密を抱え込み続け、おそらく「秘事」の後にも打ち明けることは許されなかった。
僕はそこに「秘事」には人生とか愛を見ているんだと思う。
僕たちが生きる世界は小説ではない。
だから、誰かに誤解なく打ち明ける術を失った事実は死ぬその瞬間まで秘事として、抱え込んでおかなければならないし、そうすることで不幸であったとしても耐える他ない。
そんな「秘事」を書かれた河野多恵子が亡くなったのは二〇一五年一月二十九日で、八十歳だった。
二〇一五年一月二十九日の時点で、僕はまだ二十三歳。
「秘事」を新幹線で読んでから、一年も経っていなかった。
河野多恵子が亡くなったネットニュースを見た時、涙は出なかった。数日後に、川上弘美がネットで河野多恵子の死に触れていて、作品を紹介していた。
「幼児狩り」「不意の声」「秘事」の三つで、川上弘美の紹介文は素晴しかった。
その後に、二〇一五年の四月号の新潮と文學界で「追悼 河野多恵子」が掲載された。
僕はどちらも購入した。
そして、その追悼文で僕は馬鹿みたいに泣いた。
僕は好きな作家の死という事実そのものでは泣くことはできない。
けれど、今を生きている作家たちが河野多恵子の生前をしのび、各々のエピソードを語った原稿を読んだ時には、壊れた蛇口みたいに泣いた。
その時、僕は世の中に葬式があることの意味が分かった気がした。
最後に「秘事」の話に戻って、今回の記事を終わりにしたい。
追悼文の中で瀬戸内寂聴が以下のように書いている。
(河野多恵子の小説の)題材のほとんどが、サド・マゾ的性愛や、夫婦交換や、愛欲殺人など異様なものが取りあげられている。幼女が嫌いで幼い男の子にだけ異常な愛着を抱く話などは、現実に河野さんからその異様な場面を如実に示されたことがある。
河野多恵子のデビュー作「幼児狩り」はまさに「幼女が嫌いで幼い男の子にだけ異常な愛着を抱く話」で、彼女自身の中にある感情が前提にあっての小説だったのだと、言うことに驚く。
そんな河野多恵子作品について、瀬戸内寂聴はこんな風に続ける。
どんな奇怪な状況を書いても、河野さんの作品からは下司なエロの匂いのしないのは、彼女自身がその倒錯した官能を人間のあり得る官能の一部だと信じているからだろう。
また、川上弘美の追悼文には以下のようにも書かれている。
妙な負荷はかけらほどもかかっていない、河野さんの体から素直にでてくる言葉が、文章が、物語が、そのままきれいに小説になってゆく、という書きかたを、河野さんはしていらしたのではないだろうか。だから、河野さんご自身と、河野さんの小説の間には、乖離がなかった。
さきほどの瀬戸内寂聴の「幼女が嫌いで幼い男の子にだけ異常な愛着を抱く話」を本人が如実に示していると書いている以上、川上弘美の書く「河野さんご自身と、河野さんの小説の間には、乖離がなかった。」には、一定の納得ができる。
その上で、では「秘事」は河野多恵子にとって、どんな位置付けがなされていたのだろうか。
山田詠美との対談集「文学問答」で、河野多恵子は「秘事」について以下のように語っている。
河野 本当は、最後は三村に麻子と死体性交させてやりたかったの。でも、彼女の死病の性質とか、いろいろの状況でそれは無理。それだけでなく、そこまで書くとあの作品はいびつになります。
その為に、「秘事」の文庫本には「半所有者」という短編も併録されていて、これは死体性交する夫婦の話だ。
僕は「秘事」を特別な小説だと思っているけれど、もしも仮にラストで死体性交が描かれていたなら、今ほどに特別には思えなかった気がする。
同時に、序盤から中盤にあたる部分を注意深く読んでいくと、ラストに死体性交を描く為のルートを模索している手つきが分かる部分がある。
途中まで死体性交のルートを進んでいたけれど、終盤でそのまま描けば「いびつ」になってしまうほどに人生の深い場所に到達してしまった、それが「秘事」の魅力だと僕は思う。
その魅力とはなんだろう?
という答えが瀬戸内寂聴の追悼文の中にあった。
数年、いやもっと前から河野さんの耳が遠くなった。私も遠くなったが、彼女の方が重かった。突然電話がかかってきて、大きな声で喋りはじめると、二時間くらい喋りつづける。
(中略)
最近は二年前に亡くなった市川(夫君)さんを施設に見舞った最後の日のことだった。
「いつもは、おい、とか、お前とかいうのにその時は、た、え、子って、とても大きな声で呼んでられたのよ。そして、今日のそのピンクのカーディガン、とてもよく似合ってるよっていってくれたの。その晩、私がマンションに帰ったらすぐ、死んだと電話が入ったの。最後にほんとうにやさしい言葉だけ残してくれたわ……」
驚いてしまったのは、このエピソードは「秘事」のラストそのものであることだった。
河野多恵子が亡くなったのが二〇一五年の一月なので、その二年前と言うと、二〇一三年頃になる。
「秘事」は平成十二年、二〇〇〇年に刊行されているので、順番はあべこべになる。
ただ、河野多恵子は川上弘美が追悼文で書くように、自分と小説の間に乖離のない、稀有な作家だったんだと改めて思い知り、吉田修一の河野多恵子の追悼文が浮かぶ。
作家には狂気がある。僕のような半端な作家にはないが、本物の作家にはある。作家が持つ狂気は冷たくなく、どちらかといえば、あたたかい。だからときどき見過ごされる。
確かに河野多恵子は、あたたかい狂気を持っていた。人生すべてが小説になってしまう世界は、どんな場所なんだろうか。
そんな狂気が渦巻く世界の小説を、僕は涙に暮れてもいい場所にしていた。
決して優しい訳でも、心地いい訳でもない場所が、ある時期の人の救いになるんだ、と二十三歳の時に知れたことは一つ、人生の財産になった。
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