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2023年と2024年を通して「ある種の自動生成」の中で生きる心地よさに目覚めた話。

 みなさま、2024年はどんな年だったでしょうか?
 僕はいろいろありました! 本当にいろいろありました!!
 プライベートは一端置いておいて。
 とりあえず、今年もいろいろ文章を書きましたよ!
 来年の2025年もいっぱい書きます。よろしくお願い致します。

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 さて、去年の今頃の僕は「ベストハンドレッド」なる記事を一人黙々と書いておりました。これは2023年に僕が摂取したコンテンツを100のランキングにして紹介するというものです。
 ランキングの基準は「基本的に好き嫌いという感情的なものは排除」していて、「僕なりの評価軸と理屈を持って選ん」でいます。
 この評価軸と理屈はランキングを順番に読んでいってもらえれば分かる、という作りになっているのですが、それを理解してくださった方が何人いたのかは疑問です(というかゼロだったと思います)。
 とはいえ、個人的なランキングですので、評価軸や理屈が伝わらなくとも「コイツ、今年はこんな作品を摂取したんだ」という目線で、流し読みしていただければ僕は満足です。
 今年も一応やる予定です(まだ準備途中段階ですが)。

 ちなみに生活面で言うと、2023年は彼女と同棲を開始しました。家族以外の人と一緒に暮らす経験が初めてで、それは相手も同様でした。
 形の違う石を一つの入れ物に入れて長時間動かせばかどが取れて丸くなっていきます。月並みな表現ですが、僕達のかどは一緒に生活をしていくことで丸くなっていったように思います。

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「石」繋がりで、最近興味深い一文を読みました。
 紹介させてください。
ライティングの哲学: 書けない悩みのための執筆論」という本の鼎談の中で、美学者で庭師の山内朋樹が文章を書く際は「外部化されたものを見て判断したい」という主張から、以下のような話をされています。

平安時代の『作庭記』という作庭指南書があるんですが、そこにはまずいろんな石を集めてきて並べてみろとある。Inboxのように。で、そこからいい感じのをひとつ立ててみろと。つまりはプロジェクト化する。するとその最初の石が次の石を乞うんだと、ある種の自動生成を導く手立てを書いています。なにかしら物質的にごろっと置いてしまえば、それが次を、次が次を求める……「求める」という言い方はちょっと微妙かもしれませんが。

 この話はつまり、文章を書く時に何もないところから書こうとせず、「まずいろんな石を集めてきて並べて」みるように、とりあえずなんでも良いから文章を書いてメモとして残しておきなさい。すると、そのメモが次の文章を導いてくれる、というような話なんです。

 これ人生も同棲生活も一緒なところがあります。生活をする上で、最初に最良の一手を選べることは殆どありません。色んな方法を試して、しっくりくるもの、とりあえずお互いに不快にならないものを選んでいく。
 すると、じゃあこれもこうだよね? あれはこうかな? という判断ができるようになります。「最初の石が次の石を乞う」状態です。
 そうなると、次に訪れるのは今まで自分はこれはこう(作業する時は一人がいい)と決めていたけど、別にそうしなくても愉快に生活できるんだな、という感覚です(実際、リビングでも作業はできました)。
 もちろん逆に、僕はこれだけはどうしても変えることができないんだな、と思い知ることもあります(一日二時間はパソコンに向かってないと、そわそわしてしきます)。
 他人を知ることは自分を知ることなんだな、とつくづく思います。

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 さて、さきほどの山内朋樹の発言を受け、鼎談相手の一人読書猿が以下のように反応します。

読書猿 最初に石を置いたら、もう取り返しがつかないから。取り返しのつかなさから始まっていって、できないことが増えていくんですよね。そうやってできないことが積み重なっていった結果、残った道筋が見えてくる。

 個人的に、読書猿の主張は大変納得できるものでした。
 生活は「できないこと」を積み重ねていく行為です。
 同棲をする前は「できること」が増えるのが豊かな生活だと考えていました。けれど、同棲して他人と生活をしてみると、「できること」が多いと迷いが増えて、豊かさからは逆に遠のいてしまいました。

 これは文章も同様のことが言えます。というか、引用している本が「ライティングの哲学: 書けない悩みのための執筆論」なのですから、当然そうなんです。
 小説やエッセイなどの文章も「できないこと」を増やすことで、物語の必然性が生まれて書くべきものが生まれていきます。「できること」が多ければ必然の文章は生まれず、Aでも良いし、Bでも良い。あるいは、Cでも良いかも知れないとなり、無限の可能性が頭をよぎり続けます。
 そうなるとどうしたって散漫な文章になりがちですし、緊張感もなくなります。

 文章の話になりましたが、今回はちょっと生活の話に寄せさせてください。
 今回、僕が言いたいことは「できないこと」を増やす、あるいは自分には「できないこと」を理解することが生活を豊かにする一つの方法なのではないか、です。
 2023年の僕ははじめての同棲生活の中で、変わっても問題ないものと、これは変えたくないと頑なに感じるものの二つを強く意識しました。
 そして、この変えたくないと感じるものを一緒に生活する相手にどう伝えるかを考えました。おそらく、この先、これは変わらない。これは変わる。みたいな話です。

 理路整然と喋れたわけではありませんが、そんな会話ができるようになって初めて僕は結婚を具体的に考えられるようになりました。それまでは象徴的なぼんやりとした話しかできていなかったんですよね(おそらく、それは僕の思考回路がAでも良いし、Bでも良いとなっていた)。そして、その結果、ブチギレられたりしました。

 ということで、山内朋樹の言葉を借りれば「なにかしら物質的にごろっと置いてしまえば、それが次を、次が次を求める」ように、2023年に同棲という生活をごろっと置いたことで、それが次を求めて2024年には入籍をし、2025年には結婚式をします。
 すると、次は子どもなのか、別の何かなのか分かりませんが、「ある種の自動生成」の中に僕はいますので、健全にそのサイクルが回る以上は、次が訪れます。それは僕の意思ですが、同時に別の大きなぼんやりとした何かに導かれている感覚もあります。

 一人暮らしをしていた頃、何かを決定する主体は僕で、他に何かが挟まる余地はありませんでした。それはそれで心地よかったです。
 しかし、2023年と2024年を過ごした今、別の大きなぼんやりとした何かに導かれる生き方が僕は割合しっくりくるんだと気づきました。年齢もあるのかも知れません。
 三十三歳。全部、自分の思い通りにく青春的な立ちふるまいから一つ大人になって他人の意思を尊重して生きていく。そんな時期に差し掛かっているのかも知れません。
 そして、そんな生き方は悪くないなと今の僕は思っている次第です。

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 というのが生活のお話。
 最後に僕が同棲をしても、結婚をしても変わらなかった小説のお話をして、今年最後のエッセイを締めくくらせていただければと思います。

 新しい短編を公開しました。

 今回のエッセイの中で「取り返しのつかなさから始まっていって、できないことが増えていくんですよね。そうやってできないことが積み重なっていった結果、残った道筋が見えてくる」という読書猿の発言を引用しましたが、今作はまさにそういう「取り返しのつかなさから」はじまりました。

 主人公は岩田屋シリーズに登場する空野聖里菜。芸名は星野里菜。
 外見はギャルっぽく、姉御肌で物語に登場するだけでぐんぐんと話を引っ張ってくれる魅力的なキャラクターなんです。
 この空野聖里菜が自動車学校の教習所に通っている間に何かしらのゲームをする短編。
 という縛りで、本作は書かれました。
 ちなみに同じ縛りでたぬき85さんも短編を書いてくださっています。

 相変わらず文章が上手く、キャラクターも立っていて良い短編です。
 後に倉木さとしさんも同じ縛りの短編をアップしてくださる予定です(あくまで予定です)。

 現在、公開されている僕とたぬきさんの短編を読むだけでも、空野聖里菜の魅力的なキャラクター性が伝わればいいなと思っています。
 そして、少しでも面白いと思ってくださった方は岩田屋シリーズの長編作品も覗いてみていただければ幸いです。

 現在、連載中の岩田屋シリーズはこちら。

 最近、完結した岩田屋シリーズはこちら。

 どちらも僕が作者ではありませんが、一読してみていただければと思います。
 よろしくお願い致します。

 ということで、2024年にこの文章を読んでくださっている方。
 よいお年を!

 2025年にこの文章を読んでくださっている方。
 あけましておめでとうございます!
 今年もよろしくお願い致します。

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さとくら
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